非法則的一元論を提唱したデイビッドソンは、「心は脳の随伴現象である」という立場を取る一元論者である。
端的に言うと、心とは脳の機能であるとする脳科学の立場に近い。
しかし、彼の立ち位置は、脳科学とは微妙に異なる。

脳科学の作業仮説は、我々が心と呼んでいる機能は、脳内の電気生理学的反応によって生じるとするものだ。
だから、心の動きと脳内プロセスの対応関係を実験的に突き詰めていけば、我々の心理は全て物的反応に還元できるし、脳に働きかける事で心をコントロールすることもできる。脳に似せることで人工頭脳を作ったり、心をダウンロードすることもできる。
これが、心なきサイコパシーな心理学であることは明白だ。
我々が外から観察して認識できるのはあくまでも電気生理学的反応であって、我々が内的に体験する質感は、そこからは導出されない。
赤い色を見た時の脳内反応を抽出しても、その反応が「赤い」わけではないのだ。

これに対して、デイビッドソンの立ち位置は独特である。(なお、彼が非法則的一元論を提唱した頃は、まだ脳科学は始まっていなかったが。)

デイビッドソンは、心が脳内反応によって生ずる「随伴現象」であることは認める。
しかし、それにも拘らず、心は脳内の物的プロセスに還元できないと論じた。
彼は、心的概念と物的概念の違いを論じる中で、自然現象における「原因ー結果」の物的因果関係とは別に、「動機ー(決断)行動」の心的因果関係を定立した。
そして、我々の心が機能するとき、心的因果関係と脳内の物的因果関係は必ずしも対応しないと論じた。

例えば、こんな感じだろうか。
「お腹が空いたーラーメンを食べよう」
このようなシンプルな心的因果関係が成立した時、我々の脳内では何が起こっているだろう?
空っぽの胃から電気信号が届くー空腹中枢が刺激されるーホルモンが分泌されるー記憶中枢内の食事メニュー記憶が電気的に励起されるー最も好ましいものとしてラーメンが選択される
これだけ見ても、心的因果関係と物的因果関係の間には、一対一の関係がないことが分かる。
まして、個々の電気生理学的反応は、細かく見たら量子プロセスまで還元されるが、我々の心はそんな細かいプロセスを意識しているわけではない。

つまり、脳内の電気生理学的反応は、自然法則に従って生じるし、我々はそれを心として体験するのだろう。しかし、我々の心の動きを突き詰めていけば電磁方程式が導出される訳ではない。生物学の諸法則が化学方程式から導出されないように、心的プロセスは物的な自然法則に対応しない、独特のプロセスなのだ。
心的プロセスは、自然法則に規定されるという意味での法則的なものではないし、もちろん反法則的なものでもない。
自然法則とは無関係であり、非法則的なものなのだ。

この議論はしかし、脳科学以前のものである。
「非法則的」という概念は、自然法則に従う脳内の物的プロセスと、自由意思に従う心を両立させるための誠に魅力的な捉え方ではある。
しかし、心は所詮は随伴現象なのだ。
我々の自己意識が、単に細かいプロセスを自覚していないだけだと言われたらそれだけである。

心を脳の軛から解き放つには、もう一歩踏み込む必要がある。