先に、心身問題に少し触れた。
心身問題自体はデカルトの勘違いから派生した虚論ではないかと考えている。
が、これは本題とは関係ないので、ここではこれ以上触れない。

しかし、心身問題について考えることは、「自由」の概念に関して多くの示唆を与えてくれる。
私がここで考えているような「自由」とは、「身体の自由」ではなく、「心の自由」である(ちなみに私は50肩で左手が上がらない:笑)。
「心」が「身体」とは独立した実体として存在するのか?
あるいは「心」は「身体」の機能が生み出した幻想に過ぎないのか?
こういった問いは、いわゆる「自由意志」の可能性について様々な示唆をもたらす。

さて、心身問題に関して提起されている様々な仮説の中に、D.デイビッドソンの非法則的一元論がある。詳しい中身には触れないが、「自由」という概念の捉え方について、大変面白い示唆を与えてくれるものである。

「法則的である」というのは、外部の規則に規定された状態を指す。
ここまでの議論に従えば、まさしく「不自由」な状態だ。

これに対して、「反法則的である」というのもまた、逆の意味で法則によって規定された状態である。
夜の校舎の窓ガラスを割って回り、盗んだバイクで走り出した少年が感じていた「生き辛さ」とは、規則を強制される不自由さではないだろう。
規則対して常に逆張りをして逆らい続ける。
これもまた、ベクトルが正反対なだけで、規則に規定されているということなのだ。
彼が感じた生き辛さの正体は、規則から解放され自由であろうとすればするほど、結局は規則に縛られてしまうというジレンマだったのではないだろうか。

では、「非法則的である」とはどういう状態なのだろう?
一言で言えば、規則に従うことも逆らうこともできる状態。その判断の主体が規則とは無関係に判断できる状態である。
分かりにくいので例を挙げて考えてみよう。

…今日は遅くなったのでここまで。(笑)