さて、ここまで勝手気ままな考察を書き散らしてきたが、言語学に詳しい方がご覧になったら呆れてしまうに違いない。
色んな話をごた混ぜにしている。
素人が「比喩表現」という言葉の意味を履き違えている。
等々。
ちょっと立ち止まって整理してみよう。(笑)

例えば、慣用句をあたかも比喩表現ではないかのように言ってみたが、慣用句だってその多くは比喩表現だ。
比喩表現は、その用法から「直喩」「隠喩」「転瑜」「換喩」などに分類され、それが慣用句であるのかどうかは大した問題ではない。

比喩表現とは言葉ありきの概念である。
言葉とは、表象とそれが指示する意味から成る記号であり、表象が直接指示しない意味を表すのが比喩表現だ。
つまり、表象と意味が結合した記号において、そのズレとして比喩表現が成立できるのであり、比喩表現とはあくまでも言語記号体系の内部にのみ成立できる概念である。
「目の前を走り抜けた黒猫」は単なる視覚表象であって、そこに特定の意味は付与されていない。つまり、これは記号ではないので、「比喩的」というのは不適切である。
てな感じだろうか。

しかし、よく考えてみよう。
表象と意味はどうやって結合するのだろう?言い換えると、これらが結合した言語記号はどのようにして成立するのだろうか?

例えば、「矛盾」という言語記号を、我々はその言葉の意味そのままで理解し、使用している。
しかし、「矛」や「盾」という記号には、「矛盾」という言葉のニュアンスは含まれない。
「矛盾」という言葉の語源は、「何でも貫く矛」と「何にも貫かれない盾」の故事から来た比喩表現である。しかし、今や「矛盾」という記号においてその意味は固定され、表象と意味はしっかり結合している。
「矛盾」という言葉には、我々が知っているような、故事に由来する「比喩的な意味」以外の「本来の意味」なぞない。

或いは、こういうのはどうだろう。
人は「走る」
車も「走る」
では、衝撃は「走る」のだろうか?
衝撃が「走る」という場合の「走る」は、擬人法的な比喩表現である。
しかし、他にどんな動詞でこれを表現すれば良いというのだ。
「(衝撃が)走る」は、「走る」という言葉の意味のパースペクティブにしっかり取り込まれており、他の比喩的でない表象はない。

「クラウドサービス」なんて、数十年前にはなかった。
しかし、電子空間内の新たな機能として構築されたそれを、誰かが比喩的に雲に例えて「クラウド」と名付けた時から、それは「クラウド」という言葉の新たな意味として付け加えられた。

つまり、新しい概念や対象が見出されたとき、人はどこかから似たような記号を借りてきて比喩的に表現する。そしてその比喩的な意味と表象の結合が固定され、記号に新しいニュアンスを加えていく。それは様々な言葉の語源を辿れば分かることだ。
記号とは、表象と意味の一対一の結合ではなく、限られた表象に新たな意味を加えることで更新されていく、ダイナミックなものである。表象と意味がセットで創造されるのではない。

だから、意味が固定された慣用句と、文脈からその都度読み取られる詩的表現は、本質的に異なる。
意味が固定した慣用句を比喩表現とみなすと、結局全ての言葉が、元々は何らかの比喩表現だったものが慣用句的に固定されたものなのではないかということになり、「比喩表現」という概念自体が霧消してしまう。意味と表象の結合が固定された時、それは「普通の言葉」になってしまうのだ。
「比喩表現」という概念に意義を持たせるならば、意味が固定された慣用句は単なる固定された記号として全て捨象してしまう必要がある。
文脈の中に得体の知れない「意味の幽霊」が立ち現れる詩的比喩こそが、言葉の起源を人間の認識と結びつけるキーとなる、大変面白い思索対象である。
そして、それは客観的な言語学とは異なり、主観的意識の視点から言葉を捉え直す契機となり得る。

今夜はここまで。(笑)