「夢は比喩表現である」と言ったのは、確かユングだったと思う。

30年ほど前に「フロイトvsユング」みたいな話が流行ったことがある。
これは、師匠フロイトと弟子ユングの内的な葛藤の愛憎劇のように語られることが多いように思うが、それは野次馬根性に理屈を付けたに過ぎない。
精神分析学の黎明期を支えたこの2人は、基本スタンスにおける対立があったのだ。

フロイトにとって夢分析は「翻訳作業」であったのに対し、ユングにとって夢分析は「比喩表現を感じること」である。

フロイトの「夢診断」には、「夢の中に出てくる〇〇は、〇〇という意味である」的な「夢辞典」が掲載されている。
つまりフロイトは、夢の中に出てくるモチーフに着目し、そのモチーフ、すなわち「夢単語」の意味を夢辞典で確認し、夢のストーリーを文章として翻訳していたのだ。

これに対してユングは、夢のモチーフに対して固定された特定の意味を当て嵌めることをしなかった。夢のモチーフの意味は、夢を見た本人がその都度の内的文脈に従って解読するものであると。
ユングは夢のモチーフではなく、むしろシチュエーションに着目した。
夢の中でどのような場面を体験し、それに対して夢見者はどんな感情を持ったのか。そこから、夢見者にとってのその夢の内的意味を解読しようとしたのだ。

例えば、「怪獣に追いかけられる夢」について考えてみよう。
フロイトなら、夢に出てくる怪獣を「抗えない力を持った脅威」とでも翻訳するだろう。そこから、「何か最近辛いことでもあるのですか?」的な診断をするだろう。
何となれば、その怪獣はエディプス・コンプレックスの対象たる内的父親の変形であり、「あなたはその脅威と戦わなければいけない。今の辛い状況を乗り越えることで成長できる」とでも言うかも知れない。

これに対し、ユングなら、まずは「怪獣に追いかけられる」というシチュエーションと、それに対する夢見者の感情を問う。「追いかけられてどうでしたか?怖かったんですか?」
夢見者が、絶望感を味わいながら、命からがら逃走していたのだと言うのであれば、彼は日常生活において、そのような「何かに追い回される」辛い状況を経験しているのだろう。日頃我慢している辛い感情が、夢の中で「怪獣に追いかけられる」という比喩表現の形をとって表現されたのだ。
これならフロイトと大して変わらない。

しかしこの夢が、実は「楽しく追いかけられる」夢であったらどうだろう?
怪獣に追いかけられるのが楽しいというのは、普通にはあり得ないかも知れないが、例えば彼は、その怪獣を罠にかける戦略を立て、囮となって「ワクワクしながら」逃げ回っていたのかも知れない。
こうなると、フロイト的翻訳では解釈できない。単なる翻訳作業は、意味が固定された慣用句を拾うことはできても、比喩表現の味わいを文脈から読み取ることができない。
I love you. を「今夜は月が綺麗ですね」と訳する比喩表現は、その場面の文脈を感じることによって可能となる。それは慣用句ではないのだ。