宝石の美しさを定量評価するために、例えば宝石の輝度を測定してみる。
しかし、そこで測定しているのは宝石の輝きの強さであって、美しさではない。
宝石の形状を決定するアルゴリズムの複雑さを測定した時に得られるのは、形状の複雑さであって、美しさではない。
こういった事情を「誤魔化す」ために、我々が感じる宝石の美しさの決定に関与しそうな要因をできるだけ多く抽出し、それらの測定値を適切な比率で足したり掛けたりする総合評価として、宝石の美しさの程度を算出しようとすると、今度は、その数式をどのようにして決定するのかという問題が生じる。
公式の定数や項の四則演算のやり方を推定するには、あらかじめ目的変数である「美しさ」を決定しておく必要がある。これでは循環論法である。
つまり、主観的評価は客観的に定量できない。「美しさ」は、「赤さ」「軽さ」「暖かさ」とは性質が異なるのだ。

ここで、話を元に戻してみる。
先の2、3節あたりで、「重さ」はグラム法で定量評価が可能と論じた。
しかし、よく考えてみよう。
グラム法で定量評価しているのは、対象のグラム重量であって、我々が感じる「重さ」を直接測定しているわけではない。
対象物を持ち上げた時に感じる「重さ」は、人によって異なるし、自分だってその日の体調や疲れ具合によって、感じる重さは異なるだろう。

つまり、「重さ」と「重量」は似て非なるものである。
我々は、主観的に感じる「重さ」が、客観的に測定される「重量」と概ね相関関係にあるという仮定のもとで、グラム秤で「重さ」を測定していると見做しているだけなのだ。
これは、「赤さ」や「暖かさ」も同様だろう。
もちろん、我々が感じる「重さ」は、おそらく一本の評価軸で相対評価可能な系列値を取るはずである。重い物を持ったら重いと感じるし、軽い物を持ったら軽いと感じるのだ。その物差の目盛の刻み方が、日によって、或いは人によって変わるだけだろう。
しかし、それでもなお、主観的に感じる「重さ」を直接測定することはできない。
「重量」は物差を決定した時に自動的に決定されるが、「重さ」はその都度持ち上げてみなければ分からないのだ。
ここには「美しさ」と同じ事情がある。
ならば、「美しさ」と「赤さ」「軽さ」「暖かさ」は、実は同じなのではないだろうか?