以前、「因果関係と迷信」で議論したが、因果関係は論理的に導出できないものだ。
2つの出来事間の因果関係が真であるのか迷信に過ぎないのかは、蓋然性の程度によってしか判断できず、因果関係が在るということを論理的に導出することはできない。
人間は、2つの出来事の間に意味のある関連を感じた時、それらを因果関係によって結びつけようとする生得的な衝動を持つ。
それは、体験した出来事を整理したいとする衝動であり、因果関係とは単にこの衝動に由来するアプリオリな認識なのだ。

それにも拘らず、「因果関係が在る」と言えるのは、因果関係によって結合した複数の出来事が、複合的な一つの出来事としてアプリオリに認識されるからだ。
「ベニヤ板を殴った」「ベニヤ板が割れた」という2つの出来事は、「殴られたベニヤ板が割れた」という、1つの複合的出来事としてアプリオリに認識される。
言い方を変えると、2つの出来事に因果関係見出した時、我々は既にそれを1つの複合的な出来事としてアプリオリに認識しており、それが2つの出来事より構成されるというのは、アプリオリに認識した複合的出来事に対する分析的判断である。

つまり、信仰という行為において、因果関係をアプリオリな前提として、それに事実を従わせようとするのは、人間にとって生得的な衝動なのだ。
信仰とは反対のベクトルを持つ「科学の営み」が近代以降にようやく成立し、今もなお科学信仰を生み出してしまいがちなのは、それが人間の生得的な衝動に逆らう行為であるからなのかも知れない。

「前から車が走ってきたら、道の脇に避ける」これは、「走る車は我が身を傷つけるかも知れない危険なものである」という因果関係をアプリオリな前提とした、交通安全信仰なのかも知れない。
実際のところ、道の脇に避けなかったからといって、いつも轢かれるわけでもない。
赤信号でも車が来なかったらさっさと横断してしまう大阪人のようなやり方が、合理的で賢いのかも知れない。
それでもなお、このような交通安全信仰が有用であることは疑いがない。交通マナーを守ることで事故リスクを減らせるということには、科学的検証に基づく一定の蓋然性がある。

霊格信仰に基づき、他人に親切にして誠実に生きることにも有用性がある。霊格という概念が空論であっても、それが人の行動を正しく律するルールであるうちは、社会的に有用である。
カントが言うように、神の存在証明はナンセンスだが、神の信仰は有用なのだ。

しかし、有用性という基準には適用の限界がある。それは、事の真偽とは無関係な基準である。
「有用な因果関係」を、その有用性故に真であると見做してしまうと、その信仰は有用性の範囲を超えて敷衍され、やがて有害であっても真であるが故に肯定されるべきと見做される。これがいわゆる原理主義というものだ。

「自殺者の霊は霊格が低いので地獄に堕ちる。そのような自殺者が出た家には悪霊が集まっており、黒いオーラが出ている。家族もおかしい人ばかりだ。」
このようなことを平気で騙る狂信者は確かに実在する。
信仰は生得的衝動に基づくアプリオリな衝動であるが故に、その限界に無自覚であったり、有用性と真偽を混同する者は容易に暴走してしまう。

懐疑とはまず自分自身に向けるべきものなのだ。