まずは、宇宙の起源に関する議論を例に考えてみよう。

夜空の星の光をスペクトル分析すると、赤方偏移が観察される。いわゆるドップラー効果である。
赤方偏移の程度は、遠い星の方が大きい。つまり、宇宙の星々は互いに遠ざかっており、全体としては膨らむ風船のような状態にある。
ここまでは、現在の宇宙の状態として、誰もが観測して確認できる事実である。

ここから遡って宇宙の起源を考えると、原初の宇宙は小さな圧縮された状態から、ビッグバンによって始まったのだろう。
これが論理的に導出される宇宙の起源に関する仮説である。

さらに、現在観測される宇宙は、それが遠いほど、古い時代の状態を見ていることになる。
だから、ビッグバン仮説が正しいのなら、その名残りである初期宇宙のマイクロ波背景輻射が、宇宙の全方位から均質に届いているはずだと推定され、現にそれが観測されている。

このように、「科学の営み」は、今、誰もが確認できる根拠から、その原因を遡って論理的に推定する行為である。
そして推定された原因が正しいかどうかは、その原因から導出されるであろう別の結果を、今、観察することによって確認される。
つまり、アプリオリな事実を結果とみなして、そこから遡って原因を考察する、「結果→原因」というベクトルによる因果関係の推定がまずある(赤方偏移→ビッグバン)。そこからさらに、原因→結果という往復運動を行うこと(ビッグバン→マイクロ波背景輻射)で、その因果関係を確定する。
これらの議論においてアプリオリな前提となるのは、結果として観測可能な今の宇宙の状態である。誰もが確認できる目の前の事実をアプリオリな事実として体系を組み立てる。
これが科学の営みである。

これに対して、信仰はどうだろう。
最初に論じたように、信仰とは「ある因果関係をアプリオリな前提とする判断」である。
神の信仰においては、「宇宙を創造した神」をアプリオリな前提とすることで、結果としての今の状態を説明する。
創造神が存在すると見做せる明確な根拠はなく、原因を創造神であると見做す論理的必然性はない。
単に、そのように信じているのだ。
このように、神の信仰とは、原因としての神(とその影響)をアプリオリな前提とした、原因→結果のベクトルである。
そして、結果としての宇宙が、例えば「秩序と美しさを備えている」のが、「創造神の意思の反映」であると見做す往復運動で、神を確定しようとする。

つまり、「科学の営み」と「信仰」は、その行為のベクトルが逆なのだ。
科学の営みの結果として導出される「科学の体系」と、信仰の結果として導出される「教義」は、いずれも因果関係による静的な体系の説明であるが、それらを導いた動的行為の性質が正反対なのである。
そして、推定でしかない「神」をアプリオリな前提に置くことは、超越論的根拠を欠いた独断論であり、これが形而上学として不適切であることは、カントの議論を持ち出すまでもない。
神とは、議論の前提条件ではなく、論理的検証の結論として想定されるべきなのだ。
そして、論理的に神を導出しようとすることがナンセンスであるというのは、200年前に決着が着いた議論である。