神は原因の象徴である。

人は、原因を説明するために神を持ち出すし、原因の説明を通じて神を証明しようとする。信じられないような、説明し難い現象を奇跡と呼び、その原因は神であるとしか考えられないと論じる。
しかし、原因を説明できない出来事があるのは、そもそも人間の認識が不完全であるからではないのか?
不完全な認識しか持ち得ない人間が、どうして奇跡の原因を神の御技であると特定できるのか?
神が完全な存在で、人間が不完全な存在であるのなら、不完全な人間が完全な神を語ることは原理的に不可能だ。奇跡とは、単に説明できない現象に過ぎず、それ以上のことは分からない。それを神の干渉であると騙るのは傲慢であろう。
これが「神のジレンマ」である。

人間は出来事の原因を知りたがる動物であり、分からないことは取り敢えず手持ちのカードで説明したがる動物である。
しかし、「分からない」という事実から言えるのは、単に「分からない」ということだけである。「分からない」という事態を素直に認めるならば、そこからは何も説明できないという現実を、まずは素直に認めるべきであろう。「分からない」出来事があるから、「神が存在する可能性がある」というのは論理飛躍である。
それにも拘らず、なぜ人は「分からない」という事実から神の存在を嗅ぎ取ろうとするのか?
それは、神が原因の象徴だからだ。

神とは、「原因」という一般化された概念を比喩的に表現したものであり、原因を求める衝動が要請する存在である。
そして、あらゆる原因一般を象徴するもの、すなわちあらゆる出来事の原因になり得る存在に求められる性質は、万能性であり完全性である。
つまり、人が神に投射する「完全性」は、二次的な性質に過ぎない。だから「神のジレンマ」などというパラドックスが生じるのだ。
不完全な人間が、語り得ないはずの完全な神についてアレコレと語ってしまうのは、その完全性が二次的な性質に過ぎずないからだ。神の本性は原因の象徴であり、原因をアレコレと説明したいがために神をでっち上げた人間は、神の干渉についてソフィストのような空論を騙ってしまうのだ。

原因とは因果関係の存在を前提として成立する概念だ。
そして、因果とはアプリオリな直観である。我々は複数の出来事間に意味のある関連を見出した時、そこに因果関係を仮定する。しかし、因果関係とは論理的に導出されるものではない。そういう関係があるという前提で考えた時にそのように感じられるものに過ぎない。因果関係の有無の証明は、蓋然性においてのみ語られるものである。
よって、神への信仰を「無限なものの直観」と呼ぶ時、それは因果という内的な直観が、その形式上、「無限」という形式を取ることに依拠している。
そして、ひとたび、「因果」というアプリオリな直観に依拠して神を導出した時、その「神」は疑うべくもない、そして証明を要しないアプリオリな総合判断として立ち現れる。
しかしそのような神の性質は、つまるところ、アプリオリなものを証明できない人間の不完全性に依拠することによってのみ定立可能な概念である。
不完全な人間は、原因に対して無知であるという不完全な状態に耐えられないが故に、完全で万能な存在を求めるのだ。

そして、神は完全で万能であるが故に権威を持つのではない。
権威とは、それを崇める者が付与する属性である。
神の権威とは、神の完全性・万能性に依拠して「分からない原因」を説明したがる人間が、その説明をアプリオリな真理と見なしたいがために付与する属性である。