「信仰」とは何なのだろう?

特定のアイデアなり物事なりを、真理と認め、受け入れる。
こんな事を、人類は遥か太古より実行してきたはずだ。原始的な信仰の形跡は、ネアンデルタール人の時代にまで遡る。

進化心理学者なら、信仰という行為が原始社会内での適応度を高めてきたとでも論じるだろう。しかし、これは軽薄な機能主義だ。
ダーウィン的な適応による説明は、かなり強い淘汰圧を前提としなければならない。
異なる信仰の持ち主同士が激しく争い、殺し合うことはあるだろう。しかし、信仰を持つ者が持たない者を一方的に淘汰するという状況は考えにくい。
そもそも「信仰」とは何なのか。太古の人類においては、全ての人間が何らかの信仰を持っていたであろうことは想像に難くない。そのような状況で、強い淘汰圧を想定するのは意味がない。
信仰とはおそらく、もっと基本的な心理的要素に還元できるものであり、その要素の現れの一つなのだろう。

「信じる」というのは、つまり判断するということである。
「雨が降る原因は龍神にある」と信じるのは、言い換えれば雨の原因を龍神にあると判断したということだ。
「生起するものには原因がある」という命題を、カントはアプリオリな総合的認識であるとみなした。
これが総合的認識であるのかどうかは怪しいと思うが、アプリオリであるのは確かだ。以前論じたように、我々は出来事を因果関係によって整理し、統合しようとする生得的衝動を持っている。
つまり、人間とは出来事の原因を知りたがる動物であり、しかも単に知りたがるだけでなく、自分の認識できる範囲内に取り敢えず原因を設定しておかないと気が済まない動物なのだ。

雨の原因について、気象学的な知見を持ち合わせていなかった時代の人間は、それを「分からない」で済ませることができない。だから、龍神信仰が生まれたのだろう。
それはあまり気の利いた因果関係の説明ではないが、他にどう考えたら良いのか?彼等の知識の引き出しに入っているのは、万物を支配する神様だけだったのだ。

つまり「信仰」とは、ある種の因果関係を前提とした推測的な判断である。
そしてその判断は、そのような因果関係の存在をアプリオリな前提とすることで成立する。「龍神が雨を降らせる」という因果関係を疑ってしまったら、龍神信仰は成立しないのだ。