ここまでの議論では、サイコパシーな心にとって他者の心はどのように映っているのかを考えてみた。手こずるかと思ったが、思いの外スラスラと捗ってしまった。(笑)

さて、ここまでの議論から、一つの新たな疑問が浮かび上がる。
先に「他者の心の中の体験を知ることは原理的にできない。我々はそれを、他者の仕草や言動から推測しているだけだ」と論じた。
それならば、むしろ他者に共感できないサイコパシーな心こそが、人間の心の真実を知り得ると言えるのではないか?

確かにそうだ。
他者の心象は体験できない。
他者の心は推測でしかない。
まして、他者の感情を我が事のように体験する「共感」なんて、マンガチックな超能力だろう。
人は時に、ペッパー君の機械的反応にさえ共感してしまう。
飛んでいる蝶は幸せだと勝手に感じてしまう。
まして、「私は感受性が鋭いので、知りたくもない他人の感情が見えて、辛い想いをしている」なんて共感過剰も甚だしい。
共感などという「超能力」が存在しないことを理解するサイコパスこそが、真実をありのままに把握できるのか。

しかしそれならば、あなたが涙を流している時に、私が共に涙を流したら、なぜあなたは心を開いてくれるのだろう?
私が「机」という言葉である対象を指示した時、なぜあなたは、それが「あなたにとっての机」を意味すると知る事ができるのだろう?
なぜ私は犬が英語でdogと言うことを理解できるのだろう?そしてなぜ、私がアメリカ人に対し犬を指差してdogと言えば、そのアメリカ人はニヤッと笑ってOKとか言うのだろう?
我々は、確かに他者の心象を知る事ができるし、他者の心に「共感」もするのだ。

もし、本当に他者の心の中を知る事ができないのなら、私が発したある単語が、他者にとっても同じ対象を指示しているかどうかを正しく知ることはできない。言葉によるコミュニケーションは勘違いコントになってしまう。
いや、そもそも言葉を習得することすらできないだろう。

こう考えると、興味深い事実が明らかになってくる。
それは、サイコパスも言葉を習得しているという事だ。
少年Aは、「死に興味を持ち」、「人が死ぬところを観察してみたい強い欲求にかられた」と述懐している。
サイコパスは、このような心的タームさえ正しく使えるのだ。
つまり、共感機能がなくても言葉は習得できるし、心を理解して正しく表現することもできるのだ。

では改めて、共感機能を欠くとは、どういう状態なのだろう?