デカルトの実体二元論に対して提示された最初の疑問は、以下のようなものである。

心が物理的実体とは異なる別の実体であるなら、その「別の実体」は、物理的実体とどのようにして相互作用できるのか?
早い話が、我々の心はどのようにして身体を操ることができるのか?
なぜ、我々は「私」の想いに従って身体を動かすことができるのか?

これに対するデカルトの苦しい言い訳は、「脳内の松果体が心と身体を仲介している」というものだった。
しかしこれは、大した根拠のない思い付きである。現在では、松果体にそのような機能があるとは認められていない。

この問いの要点は、そのようなことではない。
これはそもそも、物理的実体の定義に関わる問題である。
最初の議論において、物理的実体の素朴な定義を「我々の感覚的に認知して、外在するとみなしている何物か」と論じた。
「感覚的に認知する」というのは、つまり我々がそれを「観測」しているということだ。そしてその観測とは、つまるところ、観測する主体と観測される物理的実体との相互作用である。
「目で見る」というのは、視覚対象に反射した光と視細胞との相互作用によって励起される。
目で見えないモノ、例えば紫外線や赤外線は、観測機器によって観測される。これも紫外線・赤外線と観測機器の相互作用によって可能になるものだ。
他の物体とはほとんど相互作用せず、地球すら透過してしまうニュートリノでさえ、それが観測されたのは、ごく僅かな相互作用を捉えることに成功したからだ。

ここで、物理的実体の、唯一にして「不完全な」定義が可能となる。
「物理的実体とは、他の物理的実体と相互作用するモノである。」
「物理的実体」を定義するのに、その前提として物理的実体が必要になるというのは循環論法である。これは「物理的実体」がアプリオリに存在するとみなされるものだからだ。

この定義に従うなら、物理的実体と相互作用可能なモノは、全て物理的実体だということになる。
心が物理的実体と相互作用しているのなら、その「心」は心的実体などではなく、物理的実体(厳密にはそのプロセス)なのだ。

これは、決して無理のある議論ではない。
そもそも、2つの実体の間に何らかの相互作用があるということは、その2つの実体は、相互作用を可能とする何らかの基盤を共有しているということだ。
つまり、2つの実体は共有する基盤を持つという点で、存在論的に同じ土俵にあるということである。
存在論的に全く異なる実体の間では、相互作用が成立できない。両者には何ら共有される実質がないからである。

これを比喩的に言うと、例えばバレーボールとビーチバレーは、ボールの扱いや得点の基準において共有するルールがあるので、バレーボール対ビーチバレーの不公平な異種格闘技戦は可能だろう。誰もやらないと思うが。(笑)
しかし、バレーボール対バスケットボールの異種格闘技戦は不可能であろう。両者は何ら共有するルールがないから、その戦いは決して交わることがない。

以上のように、実体二元論は、心身の相互作用を認めた時点で、その論理的帰結として、不可避的に唯物論的一元論へと解消してしまう。
性質二元論の如きは、唯物論的一元論の枠内で「二元性」を確保しようとした妥協案であり、実体二元論が想定した存在論的断絶を確保できるものではない。

現に、現代心理学は今や脳科学へと解消しようとしている。
心理学がその対象としてアプリオリに想定した「心」は、もはや脳の物理的プロセスが生み出す機能へと還元されようとしており、その試みは新しい成功を次々にもたらしている。

そして、ここに唯物論の二つ目の陥穽が宿っている。