因果関係と迷信は、独立した複数の出来事間の関係の推定であり、論理的には同じ論理操作である。
そして、両者の違いは、推定における蓋然性の程度の違いに過ぎない。

しかし、だからと言って、迷信と呼ばれていた説明にも一定の蓋然性があると見做すべきだという訳ではない。
幽霊は存在しないし、ネッシーは恐竜の生き残りではない。いくら言葉の上で蓋然性をこじつけても、無いものは無いのだ。

むしろ、話は逆である。
誰もが因果関係があると認めているような場合であっても、その因果関係は論理的に確定されたものではない。
マクスウェルの電磁方程式の正しさは、我々のパソコンやスマホ、その他膨大な電気製品が正常に作動し続けていることによって、常に追証され続けている。
しかし、そのことをもって、明日も同じように電気製品が正しく作動するということは論理的に言えない。これはあくまでも蓋然性の議論でしかないのだ。

何でもかんでも疑えば良いという訳ではない。しかし、何でもかんでも間に受けるのはもっと良くない。
もっともらしく聞こえる迷信は、「隠された因果関係」の魅力を放っているものだ。陰謀論などがそうである。
言葉を弄ぶ文字人間が創作したオカルティックな説明は、論理性はあっても所詮は言葉の上だけの話であり、そこに蓋然性はない。

因果関係=迷信であるなら、因果関係とは一体なんなのだろうか?