差別には様々な様態があるが、これらには共通した構造がある。

血液型差別では、例えば「B型は無神経」と言う。
しかし、人間は誰だって無神経な面を持っている。
神経質な人間は時として、その神経質なこだわりを他者に無神経に押し付け、その価値観を理解できない者を無神経な言葉で罵倒するのだ。
自分の無神経な行為を「無神経だ」と裁かれるのは仕方ない。しかし「B型である」という理由で、身に覚えのない無神経さを裁かれなければいけないのか?

民族差別では、例えば「中国人は食べ後が汚い」と言う。
しかし、食べ後が汚い日本人もいるし、食べ後が綺麗な中国人もいるだろう。
自分の食べ後が汚かったのを裁かれるのは仕方ない。しかし「中国人である」が故に、食べ後の汚さを理由に入店拒否するのか?

精神疾患は単なる病気である。本人はなりたくてなった訳ではないし、病人というのは、いたわられるべき存在の筈だ。
それがなぜ、隠しておくべき恥ずかしい事のように扱われなければいけないのか?病気であることは罪なのか?

同和地区出身だから、犯罪発生時には真っ先に疑われるのか?
女性だから出世できないのか?
それらは本人の罪ではない。

差別とは冤罪の一種である。
偏見によって、身に覚えのない罪の容疑者にされる。
しかも、その偏見は経験論の衣を纏っている。「B型は無神経な人が多いよね」「女性は結婚したら仕事を辞めてしまうから」「中国人団体が来ると後片付けが大変なんだよ」「親戚が精神疾患で大変なんだ」「同和地区の人ってガラが悪いよね」等々。

人は己の経験論を重視するものだ。
その経験論に「科学的根拠」なぞがへばり付くと、これはもう確信に変わってしまう。
しかし、問題はそこではない。
偏見は、個人と集団の取り違えによって起こる。
結婚したら仕事を辞める女性が多いという事は、目の前にいる1人の女性が仕事を辞めるという事を意味しない。
中国人団体の食べ後が汚かったという事は、目の前にいる1人の中国人の食事マナーが悪い事を意味しない。
精神疾患の方々の扱いが大変だと言う事は、目の前にいる1人の精神疾患の患者が「恥ずべき存在」であることを意味しない。

罪を犯した者は、その罪の故に裁かれる。
特定のグループに類別されるという理由では裁けない。
人は、その人に則して判断されるべきなのだ。