「今日はよう来てくれはったわ。ホンマに助かりましたわ。」
「いえいえ、またナンかあったら、いつでもお声がけください。」
「ほな、ちょっと待っててや…コレ、持って行ってくれるか。」
「いやいや、そんなん結構ですわ。」
「まあ、そう言わんと。気持ちだけやから。」
「いえいえ、仕事ですから。そんなん貰えまへんて。」
「これはそういうのとちゃうから。大丈夫やから。これは大丈夫やから。」
何が「大丈夫」なのか、サッパリ説明になっていないのだが、(笑)
要は、次もまた来いとか、無理を聞いてくれとか、そういう見返りを期待しているのではなくて、純粋に感謝の気持ちを受け取って欲しいというコトなのだろう。
こうして、帰りがけに缶コーヒーを一本いただいて帰るコトになる。
σ(^_^;)
関西には、このような「大丈夫やから」の文化がある。(´・ω・`)
お土産とか御礼とか、別に下心もなく、ちょっと何かを渡したい時に、遠慮する相手には「これは大丈夫やから」の一点張りで突破を図るのだ。(笑)
仕事で来ている先の相手からモノをいただくというのは、正面から問われたら不健全だという話になる。(・_・;
もちろん、現金や菓子折りを貰うなんて厳禁であろう。(-。-;
しかし、缶コーヒー1本までガチガチに縛ってしまったら、仕事は却って回らなくなる。σ(^_^;)
むかし流行ったオンブズマンなんかは、コレを下心の駆け引きと見做した。それは性悪説に基づく解釈だ。
(・_・;
しかしそうではない。
コレは妖怪「ダイジョウブヤカラ」の仕業なのである。
木端役人的な事務的態度で最低限の義務だけ果たすのではなく、相手さんの立場と気持ちに寄り添って、もう一手間を付け加える。
そうすると、いつの間にか「大丈夫やから」の缶コーヒーが出てくる。
こちらは別に缶コーヒーが欲しいワケではないし、相手さんは缶コーヒーでサービスが向上するとも思っていない。σ(^_^;)
妖怪ダイジョウブヤカラは、思い遣りと心遣いのやり取りである。コレが水面下で社会を円滑に回しているのだろう。
しかし経済学者や社会学者がその効果と影響力を評価しているのを見たコトがない。
市井のささやかな現実は、社会的地位が上がれば上がるほど、見えなくなるのであろう。σ(^_^;)
その一方で、妖怪ダイジョウブヤカラには危険な側面があるのも確かだ。
不適切な政治献金を「これは大丈夫やから」と言って渡してはいけない。
(-。-;
一杯呑みの席で、ドライバーに「これは大丈夫やから」と言って酒を注いでもいけない。(ー ー;)
こういうのは問題無用で明文化して、徹底的に取り締まらなくてはいけない。
妖怪に下心が無くても、人間に下心があったら、その時妖怪は悪の化身と化してしまうのだ。(・_・;
社会のルールは、それが行動規範として明文化されてしまうと、形式化され、融通が効かなくなる。
そして妖怪ダイジョウブヤカラは絶滅危惧種となって行く。
しかし、こう言った気持ちのやり取りの健全な在り方というのは、本来は形式的に判断するコトではない。その場の空気感で判断すべきことだ。
このように、明文化できない暗黙のルールとしての「妖怪」たちは、合理主義とは相容れない。
その曖昧さは、どう転ぶか分からない難しさを常に孕んでいる。
この先待ち構えるAI化社会が、合理的アルゴリズムで全てを形式的にぶった斬ってしまう社会になってしまわないか、いささか心配である。(-。-;
妖怪が滅びたら、その時人間も精神的に窒息してしまうのだ。
妖怪ダイジョウブヤカラが、不正行為のための方便などではなく、人の温もりを持ったルールとして生き残っていく、そういう未来を信じたいものだ。(^。^)