ここまでの、生命と意識の時間性に関する議論をまとめてみよう。


生命と意識は、いずれも成立するための要件として時間性を含む。

生命とは持続的に活動し続けるものであり、この活動をもって我々は生命を認識する。生命にとって、活動の停止とはすなわち死を意味する。

意識もまた、常に変化し続けるものである。意識は物的実体ではなく、泡沫のように現れたり消えたりする体験であるが、そういったことは全て時間経過において成立する。

なお、これは完全に個人的体験に過ぎないが、全身麻酔で完全に意識を失うと、時間経過の感覚すら消滅し、麻酔に入った時点と覚醒した時点の時間が切り貼りされ、「眠った直後に目が覚める」という体験をする。


こういった生命と意識における時間性は、物理学におけるような、空間的形式に置き換えられた歴史年表的な時間概念ではない。

意識にせよ、生命にせよ、それは今現在この瞬間において体験される、純粋持続としての時間概念である。


生命と意識における時間は、いずれもその始点が曖昧で、どこから始まったのかを明示することはできない。その一方で終点は死によって明確に断絶される。

すなわち、生命と意識の時間は過去と未来の差異を含む非対称な時間である。


認識する主体としての意識には空間性がなく、時間性のみがある。すなわち、時間とは主体的な意識を成立させるための基本フォーマットである。

これに対して、認識される外界には空間性のみがある。我々が外界に見出す時間経過は、認識する主体としての意識が持つ時間性の反映である。

そして、我々が生命の本質を持続的活動として捉える背景には、心身の一元性によって媒介される時間性の反映がある。

実体二元論、もしくはその論理的帰結としての唯物論的一元論が真理であるならば、生命は物的プロセスに還元される単なる有機ロボットであり、我々はそれを静的な構造のパラパラマンガ的重ね合わせとしてしか捉えられなかったであろう。ダーウィン以前の生物学のように。