この宇宙には、様々な自然法則が存在する。
それらの法則の中には、滅多に顕在化しない、或いは未だ顕在化した事のない法則もたくさんあるだろう。
これらは、この宇宙の性質として、おそらく最初から備わっているものである。
宇宙の中の星々は、宇宙の中では極々小さい極小領域に過ぎない。しかしここでは、他では起こらない珍しい現象が起こり、真空の宇宙空間では不可能な様々な自然法則が顕在化している。
様々な物質の構造化と秩序の生成は、まさしくそういう現象だ。
そして、我々人間が持つ主体性という性質も、その顕在化の一つなのだろう。
人間は宇宙の中に生まれた宇宙の一部である。
だから、我々が主体性を持つということは、宇宙そのものが部分的にせよ主体性を獲得しているという事でもある。
我々が、地球上で様々な現象を観察し、法則性を考察するということは、宇宙の一部が内省している事だとも言える。
それは極々小さな出来事ではあるが、ここで物理的スケールの差異を持ち出すことはあまり意味がない。
つまるところ人間は、この宇宙に生まれた認識主体として、与えられた日常の中で様々な物事を見聞きし感じ、考え、悩んだり苦しんだり喜んだりしながら、その存在期間を満了すれば良いのである。
宇宙全体に遍在する宇宙意識とやらの重要人物である必要はない。
宇宙を創造した神様から特別なお告げをもらう必要もない。
宇宙の全てを記録するアカシック・レコードにアクセスする必要もない。
銀河連合の宇宙人さんから代表として呼んでいただく必要もない。
銀河帝国の皇帝を目指す必要もない。
こういった事は全て、宇宙との圧倒的なスケールの差異を埋め合わせるために、宇宙のスケールを我々の日常スケールに寄せる事で、自分の位置と影響力を過大評価しようとする宇宙戦艦ヤマト的勘違いである。
こういった発想は、物事の意味が物理的スケールの大きさに依存すると勘違いした、パロディ唯物論である。
広大な宇宙に比べると、自分は物理的に矮小な存在であり、宇宙全体に対して何の影響力もない。
しかし、それが人の存在を無意味にしてしまう訳ではない。意味はそんな所に宿るのではない。
この地球という、極々小さく珍しい環境を持つ極小領域においては、他では滅多に見られないような、潜在的自然法則の顕在化が起こっている。
その果実としての秩序構造を、さらに珍しい存在である主体性を持った認識主体として観察・体験し、その法則性を追求して真理を知る。これが、宇宙の他の場所にはない独特の性質を持った我々にできる事であろう。
宇宙の一部として見た人間の存在の意味は、そこにあるに違いない。
と言うか、他に何かあるのだろうか?