仕事をやめようか、と考えたときにふと考えたことは今の自分は甘えているのではないかという疑問である。合理的に考えれば甘えていようが甘えていなかろうが結果として自身が納得するような結末にいればなにも問題ないはずである。今は時間の方が重要である以上、甘える方がいいのかもしれないがそれでも拒否感が存在する。そうして考えたときやはり私が恐れているのは「他者の視点」であるのだと思った。
日本人が恥の文化であるというのは有名な話であるが、あえて単純作業しているうちに考えた妄想を書き連ねてあとで自分で見返してあーーーーーとなるのもいいと思った。
私はニートをしていた期間が合計3年間もある。2年間は連続で1年間は休学である。普通の人生設計とはほど遠い。そんな自分であるからこそ自分の歴史を胸を張っていえない。大学院の修士課程卒業の肩書きもあるが、それすらもお情けでなんとか卒業したという自覚があり、なにも知らない人には効果があるかもしれないが、実態をしっている人からしたらその能力のなさに笑われると思う。
ともかく、そんな私がやめるときにどうしても考えるのは「ただでさえ空白があるのにここから空白を作ってしまえばもうあとがないぞ」というものである。なにも知らない他人からは「まだ若いから」と言ってはいるが私個人としては30はもう若くはないと思っている。そこで感じるのはやはりここでやめてしまえばさらに悲惨な未来しか待っていないぞという呪いである。
私は周囲の人間に恵まれているため、最悪障害者雇用のパートでも生きていけるとは思うし、そこは精神障害者いざとなれば死ねばいいと思い、完全自殺マニュアルも懐にしのばせている。あとは死ぬ前に旅行などすきなことをするためにへそくりを肌身離さず持ち歩いている。しかし、そうは思っていても実際、普通の人生でなければ、という思いが強い。
別に私がニートになろうが、自殺しようが大事なのは身内の人間のことであって関係が希薄な周囲の他人がどう思おうが関係ないはずであるが、どうしてもその視線というものを意識してしまう。
どうして意識してしまうのか考えたとき、私は他人を人として見ていないことに気づいた。正確にいうならばすべての他人は世間という名の神の手先で、そのなにかしらの人間aを通して全知全能でおまえの行動を逐一見張っているような錯覚である。その視線を意識してしまうだけ恐怖し、自分のしたいことより何をすればその神の怒りに触れないかということばかり考えてしまう。
今日は疲れたのでここまでにする。あとでまとめ直すが、記録としてここに残しておこうと思う。