板碑は鎌倉幕府の成立と共に全国に伝わり、その地で産出する石材を用いて造立されました。関東では緑泥片岩による板碑(武蔵型板碑・関東型板碑)が主流ですが、川原石をそのまま使った板碑(自然石板碑)、畿内型・阿波型・九州型など全国的に変化があります。

この板石供養塔婆は1283(弘安6)年に安積郡の地頭伊東祐重が亡父の百か日に建てた板碑です。東北型板碑(奥羽型板碑)と言われるタイプです。
頼朝義は義経を匿ったことを口実に奥州藤原氏征伐(奥州合戦、1189年)を行いました。藤原氏の領地は鎌倉武士に恩賞として分け与えられ、伊豆地方の領主である伊東氏が安積郡の地頭となりました。
祐長を祖とする安積伊東(藤原)氏は、祐長→祐能→祐重と続いていきます。
板碑には以下の造立趣旨・紀年銘が彫られています。
右立婆意趣者先考和泉荘司
藤原
弘安六年癸未四月廿八日敬白
祐重
禅門当百ヶ日忌辰奉為成仏也
多分、「この塔婆は亡父和泉荘司の成仏のため百か日法要に当たり、供養塔を立てたものである。
弘安六年(1283年)みずのとひつじ4月28日藤原祐重」というような意味。藤原祐重=伊東祐重。当時伊東氏が務めていたのは安積郡地頭であり、周辺に和泉荘というものは無かったようですから、ここでは和泉荘司=安積郡地頭と考えました。
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