伊奈忠次・忠治の墓:鴻巣市 | のめしこき日記

のめしこき日記

「朝日新聞のウソ」は当該記事を削除させ、教育現場の名誉を
回復するために定期的にアップします。

石造物に関しては宜しかったら別ブログをご覧ください。
「石造物を巡る https://nomeshikoki17.fc2.page/」

 古来東京湾に注いでいた利根川は、徳川家康の命令により銚子市から太平洋に注ぐように付け替えられました。洪水から江戸を守る・関東平野の耕地増加・水運などの利便性を考え、1594(文禄3)年から1654(承応3)年までの60年の歳月をかけて、忠次から忠政、忠治と受け継がれた大事業でした。
 その事績と共に、伊奈忠次・忠治の墓を紹介します。
 なお、伊奈忠次・忠治墓は勝願寺にあります。願成寺の忠政墓もいずれ訪れたいと思っています。

 

(左から忠正・忠政室・忠次室・忠次)

伊奈忠次(1550~1610年) 勝林院殿前備前太守秀誉源長大居士
 三河時代検地などで才能を発揮し、秀吉の北条征伐や朝鮮出兵で大軍を動かす兵站確保に才能を発揮しました。
 1590(天正18)年江戸に入った徳川家康は、伊奈忠次を関東郡代に任命し、利根川東遷・荒川西遷・新田開発・などを指揮させました。
 河川の付け替えに加え、正確な検地で幕府財政の基礎を固め、養蚕・麻・和紙・結城紬を奨励し民政にも尽力しました。


伊奈忠政(1585~1618年) 安養院殿前筑州大守万休一声大居士
 上杉征伐・関ケ原の戦いで兵站確保に従事し、大坂冬の陣では外堀を埋め立てる指揮をとりました。家康江戸入封後は父・忠次と共に検地や新田開発、河川改修に携わり、忠次が死去すると、遺領を相続し関東郡代を継ぎました。
 

伊奈忠治(1582~1653年) 長光院殿東誉栄源周大居士
 忠政が没っし、27歳で関東郡代に就任。父、兄の仕事を引き継ぎ治水工事、新田開発、河川改修を行い、荒川・江戸川開削工事、鬼怒川小貝川の分流工事、鬼怒川・小貝川の分流工事や千葉・茨城の利根川流域一帯の堤防工事などを行い、利根川東遷事業の仕上げを行いました。

 

利根川東遷事業

 1000年前の関東平野は香澄流海・鹿島流海・香取浦(香取海)という広大な内海と多くの河川・沼が広がる湿地帯でした。利根川は住田川となって江戸湾に注いでいました(図は国土交通省HP:利根川の東遷より)。
 徳川家康は秀吉の命による関東入部に際し、河川氾濫の防止、低湿地を耕地化する、物流の効率化のため運河を作る、東北方面の守り(伊達政宗や上杉景勝ら)のため大河川を通したいという事を総合して、利根川東遷を伊奈忠次に命じました。

(天体・天文・暦・地図・気象アラカルト:利根川東遷

 A 利根川を新川通で思川・渡良瀬川とつなげる。
 B 栗橋から赤堀川で常陸川につなげ、一部は江戸川・中川で江戸湾に注ぐ。
 C 常陸川に鬼怒川、小貝川をつなげる。
 D 流れを変えた結果いくつかは廃川とする。
 E 一連の工事は流れを変えるだけでなく、堤防・農業用水路の工事も行なわれました。

 A・Cでできた銚子で太平洋に注ぐ大河川を利根川と名付けました。
 利根川東遷(や荒川西遷)などにより、江戸湾へ流れ込む流量が減り江戸市街での氾濫が起きにくくなり、低湿地が干拓され耕地が増えました。
 東北地方(東廻海運:酒田から出港した舟が東北諸藩の荷)からの荷が銚子から遡上できるようになり、銚子沖の危険な潮目を回避できるようになりました。荷は江戸川・中川で江戸へ向かうばかりでなく、関東一帯(千葉・茨城・栃木・群馬・埼玉)への物流が広がりました。
 また、伊達・上杉氏などへの警戒は幕藩体制が強化されるに伴い薄れました。

 

 

 よろしかったらこちらもご覧ください。