真田信之の墓:長野市 | のめしこき日記

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 関ケ原で西軍についた父昌幸・弟信繁と分かれて東軍信之は、1616年上田藩(含沼田藩3万石)9万石、1622年松代藩13万石(含沼田藩)の藩主となり、松代藩真田家は廃藩置県まで10代250年にわたり存続しました。
 松代には藩祖真田信之を祭る墓所が、隠居後暮らした大鋒寺と松代藩真田家歴代の墓がある長国寺の2か所にあります。
 本稿では大鋒寺墓所を紹介します。
※ 信幸から信之に改名していますが、本稿では信之で通します。

 門の前に鳥居。門をくぐると鳥居。藩祖信之が神格化されている事がわかります。

 

 真田家の墓は伝統的に宝篋印塔です。

 塔身の四面に大鋒寺殿徹巌一当大居士骨頭片々即法身万治元戌年十月十七日烏

 笠部に六文銭が彫られています。

 この墓地は松代のはずれ、当時柴村と呼ばれた所にあります。2代藩主信政に家督を譲って隠居するはずでしたが、信政が先に死に3代藩主を巡る騒動(信政の子2歳の幸道と沼田藩4代藩主信利の争いにどうにか決着をつけ、幸道幼少につき補佐が必要でした。90をこえた身にはきつかったでしょう。

 

 真田信之は幕府に気を使いながら九度山に幽閉されている昌幸・信繁の面倒を見、大坂の陣では豊臣方に付いた弟・信繁の下に馳せ参じる家臣がいたり、秀忠に警戒されて上田城再建は許されず、愛しい小松殿は亡く、北国街道の要衝上田から加増とはいえ辺鄙な松代転封は不本意だったと思われます。

 家光・家綱時代には幕府内でも一目置かれる存在になったとはいえ、長男信吉(2代沼田藩主)、次男信政(2代松代藩主)、3男信重(初代埴科藩主)を亡くし、孫同士の幸道(信政の子)と信利(4代沼田藩主)松代藩主争いの仲裁と、3代藩主幸道は2歳と幼少のため信之が復帰して藩政を執ったりと、安寧の時のない苦難の生涯でした。
 また、身の危険を冒しても石田三成の書状を秘密裏に保存し、父昌幸の供養塔(上田市・長谷寺)を建てたりしました。加えて、小松姫の墓・霊廟を上田・沼田・鴻巣・松代に立てている事から、人情味に篤い性格で、それが人望につながっていると思われます。
 信之は決して思うような人生を歩んだ訳では無いけれど、外様でありながら幕府に信頼され、民政に力を尽くし、松代藩の基礎を築いた、人情味溢れる名君と言えると思われます。

 


 鈴木右近忠重の墓について・・・信之は家臣達の殉死を禁じていましたが、生前からの約束で右近にだけは許していたそうです。なお、江戸時代の初めに方柱墓(しかも戒名が無い)があったかは懐疑的です。後世になって作り直された墓石かもしれません。

 

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