島津家墓所(福昌寺跡):鹿児島市 | のめしこき日記

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石造物に関しては宜しかったら別ブログをご覧ください。
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 九州定年旅行で巡った石造物です。

 

 鹿児島藩73万石島津家の墓は福昌寺跡にあります。大名墓や有力氏族の墓はまだ続いているお寺にあることが多いのですが、島津家の墓は福昌寺「跡」にあります。江戸時代の福昌寺は2000~3000の末寺、1500人もの修行僧を抱える南九州一の大刹でしたが。

 

島津義弘(1535~1619年)の墓

戒名:妙円寺殿松齢自貞庵主  の太字部が彫られています。

改号:精矛巖健雄命

 

 関ケ原の戦い「島津の退き口」で有名な島津義弘の墓は宝篋印塔です。通常は塔身部に梵字が彫られますが、島津家の宝篋印塔は縦長の塔身の正面を位牌形に彫り窪め、戒名を彫っています。そして塔身向かって左横に神号が彫られています。

 

島津義久正室花舜夫人(?~1559年)の石殿

 宝篋印塔だけではなく、すべての墓碑が該当します。石殿の中の石塔には

戒名:花舜妙香大姉

改号:高光偉慶姫命 と彫られています。

 

 神道墓は江戸時代末にならないと現れないし、神仏混合の墓石は見たことがありません。旅行中は何で神号が彫られているんだろうと、不思議に思っていました。

 帰宅後調べてみると、鹿児島藩では明治新政府の神仏分離令が激しく寺視され、鹿児島県内の寺は全て破却されたことが分かりました。したがって、現在鹿児島県にある寺は明治以降に建てられたものです。

 

島津久光の墓(1817~1887年) 

 この寺の破却を主導した人物です。藩主にはなりませんでしたが藩主の父親として実質権力を持っていました。

 福昌寺跡の墓地に鳥居を建てて、墓所にしています。

 神仏分離を行った明治新政府の中でも中心的な役割を果たした鹿児島藩では、藩内のすべての寺院が破却されました。島津家墓所のある福昌寺も例外ではなく破却され、島津家の墓碑群にもその時「改号 ○○命」という神号が彫られました。

前左大臣従一大勲位侯爵之墓

 

 神道墓は現在人名の下に男性なら「大人」「翁」など女性は「刀自」「媼」などをつけるのが一般的です。光久の墓碑は顕彰碑であり儒式墓と似ています。神道墓の形式が試行錯誤時代だったのでしょう。

 光久の命令によって、福昌寺は廃止され、以後は常安峯に神道式の墓地が営まれています。

 

追補:亀趺碑

 亀趺碑は大大名の儒式墓で見られる形態ですから、調べるまではいずれかの藩主の儒式墓と思っていました。

 実際は、27代当主斉興が祖父である25代当主重豪への想いを書いた亀趺碑(1839年、天保10年:全文を読むと亀が動き出すといわれる)です。