隼人塚は何のために(愚考) | のめしこき日記

のめしこき日記

「朝日新聞のウソ」は当該記事を削除させ、教育現場の名誉を
回復するために定期的にアップします。

石造物に関しては宜しかったら別ブログをご覧ください。
「石造物を巡る https://nomeshikoki17.fc2.page/」

 九州定年旅行で巡った石造物。

 

 正国寺跡(鹿児島県霧島市)に立つ隼人塚「一石四天王像に囲まれた石造五重塔3基」中央塔5.5m。

 

 かつては隼人の乱・・・ヤマト王権の日本統一に際し、720年(養老4年)南九州の隼人が起こし、1年半近くの戦いでヤマト王権の九州南部の支配が確立した戦い・・・で亡くなった隼人の供養行事が正国寺で行われていた関係で隼人の塚と考えられ、鹿児島神宮宮司に発案により1903年から隼人塚と呼ばれてきました。

 

 しかし隼人塚はこちらの方であって、隼人塚(正国寺跡)造立は平安時代後期と考えられるので、隼人の乱とは関係のない仏教石造物と現在は考えられています。

 

 造立目的は不明です。

 という事で以下のめしこきの暴論です。

 

 隼人塚の正面が南東を向いているので、南東方面からの脅威を中心に想定していると思われます。
 地勢的には隼人塚の東1㎞ほどに現在の天降川が流れていますが、江戸時代の「天降川川筋直し」により現河道へ付け替えられるまでは、旧天降川は現在の霧島市中心市街地を蛇行しながら南下し鹿児島湾へと注ぐ河道と湿地帯でした(参考2)。そして江戸時代の事ですが地表は現在より2m以上低かったそうです(資料1)。

 桜島噴火による火山灰地は雨水により浸食されやすく、旧天降川の氾濫に悩まされたでしょう。しかも、当時は律令制度は崩壊した上に、平安貴族には土の掘削を嫌う「犯土思想」がありました(資料4)から、旧天降川流域でも大規模な土木工事は行われなかったと思われます。
 その状況の中、当時大隅正八幡宮・弥勒寺(別当寺)が旧天降川を利用して、京都や鎌倉、琉球・東南アジア・中国と交易を行っていました(資料5)。隼人塚の立つ場所には大隅正八幡宮(鹿児島神宮)本地寺の相国寺がありました。
 隼人塚は天降川の氾濫から国際交易・田畑・衆生を守るために造立されたと考えるのは飛躍しすぎでしょうか?

 

 

参 考
1 鈴木景二:史跡隼人塚とその石造物
2 鹿児島大学理学部地学教室応用地質学講座HP:国分平野の地形
3 隼人町教育委員会(現霧島市教育委員会):国指定史跡隼人塚ガイドブック、2001年。
4 西山孝樹、藤田龍之、知野泰明:わが国の平安時代における「土木事業の空白期」に関する研究、土木学会論文集D2、68巻、2012年。
5 文化遺産オンライン:大隅正八幡宮境内及び社家跡