小畑氏歴代の墓 | のめしこき日記

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 甘楽町小畑の宝積寺に小畑氏歴代の墓があるという事で伺いました。

 小畑氏の墓です。

 

 文書と図面が残っているそうですが、解説板に図示してあるとありがたかったと思いました。

 

 小幡氏は永禄年間(1558~1570)に入ると、西上州一帯に勢力を伸ばし、関東管領山内上杉氏の重臣(←これが13代小幡顕高)として活躍した。のち武田信玄の幕下に加わり、武田二十四将にも数えられ、「小幡赤備軍団」を組織した。武田氏滅亡後は、織田信長嫡男信忠に従い、その後、小田原北条氏の勢力下に入ったが、天正18年(1590)北条氏没落と時を同じくして、小幡氏は甘楽の地を去っている(甘楽町HP)。

 

 はじめは箕輪城の長野業政を中心に箕輪衆として武田信玄に対抗していたのですが、信玄の家臣となった小幡氏とあくまでも抵抗を続ける長野業正とは対立関係になっていきました。小幡氏の戦力は騎馬500(徒歩含め2,500)で、武田諸将の中で最大戦力で、武田の赤備・井伊の赤備は小畑の赤備が元なのだそうです。

 この中で手前の大きいのか後ろの一番背が高いのが小幡顕高の墓かと思うのですが、前方のは塔身が(傷みのために)取り換えられているし、

 後方のは風化して読み取れませんでした。

 

 こちらは妻と子女の墓のようです。奥の宝篋印塔を見ても

 

 女性の墓群ですし。