江戸時代の非仏教式墓:隠れキリシタン墓・儒式墓・神道墓 | のめしこき日記

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 1868年(明治元年)に神仏分離令が出されるまで、長い間神仏習合の時代が続いたという下地の上に、島原の乱が終わる1638年頃キリスト教の布教を封じるために寺請制度(戸籍機能もありました)ができ、人々はいずれかの寺の檀家になる事になりました。

 ですから例外を除いて、江戸時代の人々は仏教式の墓を立てました。

 

 のめしこきが知る例外は以下の3つです。

①隠れキリシタンの墓

 これは当然ですね。見つかれば破却されましたが、群馬県でもいくつか残っています。

 川場村:キリスト教布教していた東庵の2女おまの夫半三郎の墓。半三郎は1644年につかまり1657年に川場村に戻り、1679年に亡くなりました。戒名「雲巌亮景居士」にキリスト教(景教)を暗示する「景」が刻まれています。

 

上野村:十字の透かし彫りがある黒澤藤兵衛の墓。圓寂覺峯淨祐居士冥位という戒名ですが、「冥位」というのは他でまだ見たことがありません。文献的裏付けはないのですが、上野村白井楢原地区は藤兵衛をリーダーとする隠れキリシタン集落だったとの説があり、他にも何基かあります。

 

②上級儒者・大名の墓 

 未だ見学できていませんが、水戸徳川家は代々儒式墓で墓が営まれています。他いくつかの大名家で儒式墓があります。

 幕府内で大学頭や近侍を勤める儒者は儒式墓が黙認されたようです。 

 林述斎の墓 快烈先生林府君墓

 林羅山家8代目、中興の祖で大学頭となり昌平坂学問所を官学にしました。林氏墓所では8代目述斎の墓からこのように大規模になりました。

 

 室鳩巣の墓

 徳川吉宗の側近として享保の改革を補佐し、湯島聖堂で朱子学を講義しました。林氏墓地よりも大塚先儒墓所にある墓碑群の方が朱熹の「家礼」に定められた儒式墓としては忠実です。

 

③神官の墓

 江戸時代は神仏習合で神社には神宮寺(宮寺、別当寺、神護寺とも)が設けられていました。神官も当然仏式で葬られました。諏訪大社上社には法華寺(現存)と普賢神変山神宮寺がありました。

 

 雲龍院殿前侍中貫首・文政8年(1825年)

 戒名墓:院殿つきで「貫主」は最高の僧位を意味しています。

 諏訪大社上社の最高神官である大祝諏訪家の墓地には、神式墓は見られません。このような読み取り可能な仏式墓が複数並んでいます。

 

④例外的神式墓

 諏訪大社上で大祝を補佐する神長官守矢家の墓地には仏式墓に混じって神式墓があります。

文化十四年〇丑年(1817年。〇は判読不能文字)

神長官守矢氏神朝臣實綿霊神之墓

 戒名では無く「氏神」「霊神」と彫られています。諏訪大社上社では大祝は諏訪家が世襲し、それを補佐する5官の筆頭神長官を守矢家が世襲しました。大祝には神長官家によって神降ろしされた諏訪家の子供でなければ就くことができないので、神長官家が実質的なトップでした。

 名目的トップの大祝家・・・仏教墓ばかり

 実質的トップの神長官家・・・神式墓がある

 

 江戸時代の中ごろから吉田神社(京都)の免許がある宮司と嫡子にのみ神道墓が許された(※)ので、神長官守矢家のような墓碑が建てられた訳です。

 穢れを嫌う神道では神社境内に墓を営むことは無いので、江戸時代の神式墓を見学するのは大変難しいのが実際です。

 地元に江戸時代の神式墓があるので、次回アップします。

 

※ WEB浄土宗大辞典に「神葬祭の本格的な展開としては、近世後期におきた神職らによる離檀運動をあげるべきであろう。あまり知られていないが、近世期においては神職であっても寺院に属することが義務づけられていた。そこで、寺院からの離檀を目的に神道人自ら幕府に働きかけたのが離檀運動である。結果的には、吉田家の免状を有した神職ならびに嫡子に限って神葬祭を行うことが寺社奉行によって許可された。」