まずお断りです。本ブログは現今の夫婦同姓・夫婦別姓論議とは無関係です。
氏姓制度の歴史について、理解したことの備忘録です。理解し間違い等あると思いますので、ご指摘いただけるとありがたいです。
墓石に興味を持って驚いたことは多々ありますが、夫婦別姓に関することもその一つです。
中国や韓国では現在も夫婦別姓です。これはフェミニズム云々とは関係ありません(※1)。というか逆の思想が根底にあるようです。
さて、本題の夫婦別姓について調べたこと。以下は「氏」と「姓」の区別はしていません。
大宝律令の頃は夫婦別氏、夫婦同氏両方あったのかもしれません。
参考①では702年(大宝2年)の筑前国国嶋郡川戸里の戸籍で父物部、母葛野部とあり、子は全て物部を継いでいます。母が妾の場合も子は全て物部を継いでいます。
参考②では710年(和銅3年)の下総国葛飾郡大島郷の戸籍で戸主・妻・妾・子すべて孔王部(あなほべ)を継いでいます。
統治者にとって必要なのは口分田の班給量、税(租庸調)の徴収量、徴兵の該当者が分かればよいので、夫婦別氏、夫婦同氏はどちらでも良かったのかも知れません。
資料③では平安時代前期は妻問婚です(当然夫婦別姓でしょうね)。中期(藤原氏全盛)は妻方の家に住む(招婿婚)。天皇でさえ妻宅に住むこと(裏内裏)も多かったそうです。招婿婚では夫婦別姓で、生れた男児は父方の氏を名乗ったそうです(女児は母方の姓を名乗った?)。後期には嫁入り婚が一般化したそうです(夫婦別姓)。
夫婦別姓の意義として、一妻多妾(正室側室)の場合に妾間(側室間)に順位をつけないと子供の後継争いが生じ易くなります。別姓であれば家格に応じた順位付けがしやすかったようです。つまり夫婦別姓には男尊女卑の思想がありました。
さて、のめしこきの手持ちデータでは
再建墓(墓石の形は現代風)ですが、江戸時代のご夫婦の墓です。
この墓により、江戸時代は夫婦別姓だったのか、武士ではなくても苗字があったのか、という疑問を持ちました。
1658年(万治元年) に亡くなった新井京太さんと、
同じく1658年に亡くなった蓑浦絹江さんが眠っています。夫婦別姓婚と思われます。
この墓の夫婦は院号つきの戒名です。新井さんが何らかの功績で名字帯刀を許された時に苗字をつけたとすれば、奥さんもその時から一緒に新井を名乗るのではないかと思うのです。別々の苗字を持っていたということは、すでに一般人も苗字を持っていたということを示しているのだと思います。
当時中之条は沼田藩でしたから沼田藩士の可能性もあります。この場合奥さんの家も藩士でしょうから、両者別々の名字を持つ夫婦別姓婚だと考えられます。
この墓は戒名ではなく(神式でもありません)、実名が彫られています。ご主人は土屋、奥様は浅井さんで、土屋家の墓に眠っています。
風化と苔で読み取れないのですが、どうにか読み取れそうな中島□□さんの方には、嘉永二年(1849年)生まれで明治39年(1906年)に亡くなったということが彫られていると思います。
資料④。1876年(明治9年)太政官指令では妻の氏は「所生ノ氏」(=実家の氏)を用いることとされる(夫婦別氏制)ました。この太政官指令はあまり守られなかったようで、実情に合わせ1898年(明治31年)の旧民法(※2)成立で、夫婦はどちらかの姓を名乗ることとされました(夫婦同氏制)。
ただし、家を継ぐ男女の結婚は認められませんでした。
中島・浅井さんご夫婦は、もしかしてこの夫婦別姓制に基づいて別姓だったのかも知れませんが、戒名ではなく実名が彫られている事を考えると、正式な結婚と認められなかった(そんな事より二人で過ごす方が良い!)ため、戒名をつけることをお寺から拒否されたのではないかと推測します。
※1 中国在住の日本人ライター斉藤淳子さんが「中国が世界にずっと先駆けて「夫婦別姓」を実現した理由」(プレジデントオンライン)のタイトルの元、次のように述べていますが暴論です。
【かつては「男尊女卑」の象徴だった夫婦別姓だったが、1949年に誕生したばかりの中華人民共和国にとって、人口の半分に当たる女性を「社会と家庭の二重の抑圧から解放」し、民衆基盤として取り込むため、夫婦別姓を1950年の婚姻法で定めた。】
1949年以降がウソです。
プレジデントオンラインは何でこんなデタラメを載せたのか?
下の出生男女比を見てみると、世界平均は1.05で男児がやや多く生まれる(幼年死亡率が高いので、成人した頃には1:1に近づく自然現象)のに対し、中国では1.16と異常に男児が多く生まれています。
また、次の図から中国では若年男性が女性に比べ多いのは一人っ子政策と関係している事が一目瞭然です。一人っ子政策の時代女児が生まれるとわかると(or生まれたら)闇に葬られる子は多かったそうで、この事実を斉藤淳子さんはどのように考えているのでしょうか?
日本の曲線は男児がやや多く生まれ(性比約105)、大人になると均衡し(約102)、年金受給の頃には女性の方が多くなります(70歳頃約90)。
※2 旧民法では「家の存続」が念頭にあるので、跡継ぎの男女同士は結婚が認められませんでした。したがって、事実婚で過ごすカップルがいたそうです。明治に別姓制が定着しなかったのは、江戸時代以前も妾のいない一般家庭では日常生活で別氏を意識していなかったためではないかと思います。江戸時代の夫婦墓では墓石の側面や裏面に夫の氏名「吾妻のめしこき」と「同人妻 とら」というように彫られているものもあります。
参考
①江戸時代の妻の氏:井戸田博史、奈良法学会雑誌、12巻3・4号、2000年
②苗字の歴史学:奥富敬之、講談社学術文庫、2019年。
③「馬込と大田区の歴史を保存する会」HP:招請婚が生む所領獲得争い
④法務省HP:我が国における氏の制度の変遷