骨折中歴史ものの本を読んでいたら思い出したので、武田信玄から関ケ原の戦いを経て徳川家康の時代になる(途中変なのも混じりますが)までの愚考を再掲します。
本日は岩櫃城潜龍院です。
長篠の戦で織田信長・徳川家康の鉄砲隊に惨敗を喫してから7年後、武田勝頼は新府城から逃れるとき、一旦は真田昌幸の策を受け入れ岩櫃城の潜龍院に移ることを考えました。
しかし、家臣の小山田信茂の居城である岩殿城に逃げようとし、小山田に裏切られて入城できず(小山田は寝返りが認められず甲斐善光寺にて処刑)、天目山で自刃しました。
「甲陽軍鑑」に、甲斐岩殿城、駿河久能山城とともに、関東三名城と称えられる岩櫃城です。
越後の上杉景勝と結んで対抗すれば・・・
なぜ勝頼は甲斐を離れなかったのか・・・
もし、潜龍院に移っていれば・・・
潜龍院跡に立って、のめしこきは愚考します。
後に徳川家康を2度にわたって翻弄した智謀の重臣とはいえ外様の真田昌幸を信用できるだろうか。
領地をなくしたら主君ではなく昌幸の単なる戦略商品になってしまうかも知れない。或いは本当に主君のためを思い、上杉景勝に庇護を求める橋渡しをしてくれれば・・・命は長らえられるかもしれないけれど、それは生きたことになるのか。
武田は甲斐を離れたら武田ではなくなる。
勝頼は甲斐の地で命を全うする道を選んだのではないでしょうか。
それは勝頼を裏切った小山田信茂にも言えることでしょう。
織田信長は傭兵部隊でしたが、他の大名は農民兵部隊ですから専業兵士は1割にも満たない数です。農民は土地を離れたら生きていくことができません。ですから勝頼とともに岩櫃城に逃げても、小山田の兵の多くはついていくことはできません。小山田は信長の許しに賭けるほかなかったのだと思います。
この地域は1月末~2月上旬の早朝は-10度ほどになります。のめしこきの家近くではまだ梅の花は咲いていません。
潜龍院は背後の岩櫃山が北風を防ぐので、陽だまりになるのでしょう。梅がほころび始めていました。
武田勝頼より、織田信長より、徳川家康より、命の心配をせずに花を愛でられる今に生まれた幸せを感じました。
本当にそんなことを考えたのかい、のめしこき君?
武田勝頼も、織田信長も、徳川家康も食べたことのない、カツ丼やラーメンを食べられる今に生まれた幸せを感じていたのではないかい?
ともかく、のめしこき君、大変よく歩きました。5重花丸です。