お墓の疑問64~名字帯刀~ | のめしこき日記

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 のめしこきは越後の角突きにはまって魚沼通いをするうちに、魚沼の墓標の独特さに気づき、お墓に興味を持つようになりました。

 それで、どこへ行ってもお墓さがし(自分が入るためじゃありません。念のため:笑)をするようになりました。

 近場でも、ちょっと寄ってみたくなります。八ッ場ダムで、以下のようなお墓を見つけました。

 

 江戸時代には武士階級(と豪商など)以外は苗字を持っていなかった、農民階級は明治になって苗字をもつようになった、と中学校時代教わった記憶があります(間違って覚えていた可能性もありますが)。

 この夫婦墓の脇に、

 享和元年は1801年で、明治元年が1868年ですから、明治より70年近く前に亡くなった方のお墓です。 

現在の感覚では豊田喜時さんというお名前になるでしょうか。

 嘉永元年(1848年)に亡くなった豊田太郎左衛門さん。太郎左衛門は成人してからの通称だと思うので、本当は豊田茂三さんとか豊田良行さん、或いは幼名ではなく新しく豊田〇〇さんでしょうか。

 

 川原湯温泉ですから、お二方とも温泉旅館でも経営されていたのでしょうか。きっと武士ではなかったと思います。立派な墓石が残っているので豊かな暮らしをされた方だと思いますが、豪商というほどではなかったのではないかとも思います。

 

 再建墓ですが、下のような例もあります。

 万治元年は1658年。

 

 江戸時代の名字帯刀は公式的な場面で苗字と帯刀を許すという意味で、農民にも苗字は使われていたそうです。

 

 すぐ上の新井京太さん、箕浦絹枝さんは夫婦別姓のように思われますが、豊田喜時さんと樋田〇〇さんの奥方の名字を調べるのを忘れました。

 

 お寺の過去帳とか見せてもらえれば面白いのにな(アッ、でも古文書読めないか)。