密岩神社を後にして、
目指す潜龍院跡に向かいます。
地元民ののめしこきですが、潜龍院は初めて訪れます。
場所を調べてきたわけではありませんが、道しるべが整備されているので迷いません。
右手は険しい傾斜になっています。自然の傾斜に手を入れて防御力を高めているようです。
その傾斜に建つ家の家神様の祠が見えました。潜龍院を守っているようにも見えます。
細いのぼり道を
こんな看板を見ながら進みます。今は熊さんもヘビ君も冬眠の最中ですから安心です。
この坂を曲がると潜龍院跡です。
潜龍院跡は思ったより広い敷地でした。400mトラック3面分くらいの平地が広がっています。
戦になれば背後の岩櫃城に籠ることもできますが、潜龍院自体防御の固い館だったのだろうと思います。北と東は岩櫃山、南は急斜面です。潜龍院には西側からの細道を上るしかありません。
この石垣の上に潜龍院はありました。
石垣の前に広がる平地には、 数十軒の屋敷が立ち並び潜龍院を守っていたことでしょう。
今回は行きませんでしたがすぐ東には郷原城もあります。この(白とびした・・・涙)写真の後ろ方向(下の図だと右端)ですね。岩櫃城の出城で、潜龍院を守っていたようです。
(画像は「岩櫃城興亡史」さんよりお借りしました)
素人の推測ですが、当時は周囲に林はかったはずです。山火事を起こされたら、戦わずして負けてしまいますから。ですから、岩櫃山の麓の高台の潜龍院を古谷の集落のどこからも眺められたと思います。
同様に潜龍院からもこのような景色を望めたはずです(今は林の中に埋もれていますから、別の場所から写しました)。
殿様が住む館にふさわしい威容を誇っていたのだと思います。
岩櫃城は東に沼田城(弟:真田信尹)南に箕輪城(内藤正豊)西に砥石城(嫡子:真田信幸)小諸城(武田信豊)が守備し、北は上越の山々が城壁となり、固い防御力があります。3000の兵で、3~4年の兵糧は十分であるので、織田信長とはいえそう簡単には攻められません(以上「岩櫃城興亡史」より)。
策士真田昌幸の進言に従いもし武田勝頼が潜龍院へ移って来たら・・・