その五は答える詩です。答える詩は、元稹の詩(四皓廟詩)に対し意見が異なるとの趣旨で作られたものです。


この詩には、多くの人物が登場します。ざっと見てみましょう。

まずは、詩のタイトルにある四皓です。四皓は東園公(とうおんこう)、綺里季(きりき)、夏黄公(かこうこう)、甪里先生(ろくりせんせい)のことです。皓は白い髭と眉を意味します。陝西省商県にある商山で隠棲していたので、商山四皓とも言われます。

次に、仲尼。孔子の字(あざな)です。

それから、秦の始皇帝(嬴政)、二世皇帝(胡亥)、李斯、項羽、劉邦(沛公)、酈食其、張良(子房)、陳平、惠太子、戚夫人、巢父、許由、呂尚(太公望)、伊尹です。合計19人です。

最後に出てくる夫子または子は元稹のことを指し、予は白居易のことを指していますから、合計21人ともいえそうです。


紀元前221年に秦王の嬴政は中国を統一し、始皇帝となりました。彼は、法家の李斯を宰相として改革を断行しました。始皇帝は、紀元前210年に崩御し、二世皇帝胡亥が即位します。本来は太子扶蘇が即位するところ、宦官である趙高が暗愚な胡亥を立て、これに、李斯は協力しました。しかし、李斯は趙高との争いに敗れて、紀元前208年に非常に残酷な殺され方をしました。それは、市中で五刑(鼻・耳・舌・足を切り落とし、鞭で打つこと)の末に腰斬(胴斬り。受刑者を腹部で両断し、即死させず苦しんで死なせる重刑)されるというものでした。李斯は、かつて、同門であった韓非(『韓非子』)を讒訴し、死に追い込んでいますから、因果応報かもしれません。

権力を握った趙高は恐怖政治を行います。彼は、紀元前207年に、胡亥を弑虐し、自らが主人になろうとしますが、叶わず、子嬰を秦王に擁立しました。


話は前後しますが、紀元前209年7月、陳勝・呉広の乱が起こります。そして、この年、項羽が叔父の項梁に従い挙兵、劉邦も沛の県令となり、挙兵します。これが劉邦沛公と呼ばれるようになった理由です。

劉邦は幕下に張良陳平らを加え、紆余曲折をへて、遂に、202年に項羽を降し、漢の皇帝に即位しました。

途中、206年に、酈食其は、劉邦に対し、秦が滅ぼした斉、楚、燕、韓、魏、趙の子孫を諸侯に封じれば、喜んで劉邦の臣下になると、献策しましたが、張良が八つの理由をあげて、反論し、採用されませんでした。

それから、劉邦の配下の韓信が斉を侵攻する前に、酈食其は斉との和平交渉をして、帰順させることに成功しました。しかし、韓信は、配下の蒯通の進言により、手柄を横取りするために、敢えて侵攻を止めず、結果、酈食其は斉王田広に煮殺されてしまいました。死に際の彼は、悪びれず、堂々としていました。まさに、命を賭けて、手柄を競っていたわけです。


劉邦は即位後、呂后との子の劉盈を皇太子に立てましたが、晩年に戚夫人との子の劉如意を皇太子にしようとしました。これを阻止するため、呂后は、呂沢(呂后の兄)を通じ、張良に相談をしたところ、張良は南山四皓を招請し、劉盈の師にするようにアドバイスをし、これが実現して、劉盈の地位は守られました。


その後、紀元前195年に漢の高祖劉邦は崩御し、劉盈(惠帝)が即位しました。しかし、以降、皇太后の呂太后の専横が行われます。

呂太后は、紀元前194年に劉如意を毒殺し、戚夫人の両手両足を切断した上、目、耳、喉を潰して、便所に投げ落として人豚と呼ばせました。惠帝は、ショックで、酒食に溺れて紀元前188年に23歳で急逝しました。

また、前後しますが、呂后は韓信と対立し、紀元前196年に韓信とその三族を処刑しています。

惠帝亡き後も、前少帝(紀元前188年-紀元前184年)、後少帝(紀元前184年-紀元前180年)と、2代にわたり、呂氏の専横が続きました。紀元前180年に呂太后が死去し、呂氏一族は誅滅され、文帝(劉邦の四男)が即位しました。


元稹が、四皓廟詩において、四皓を評価しないのは、彼らが、秦の始皇帝による暴政下や、楚漢戦争(項羽劉邦の戦い)期には、南山に隠棲し、劉邦の晩年に、呂后が産んだ惠太子を守りはしたものの、結果は呂氏の専横を招来しただけではないかという点です。


巢父許由は中国の伝説上の高士、隠者です。二人はセットで登場します。呂尚は、太公望という名で知られる周の成立の貢献者で、斉の始祖です。伊尹は殷(商)の成立の貢献者です。白居易は、許由巢父伊尹呂尚を超俗と世俗の対照的な存在として登場させ、どちらか一方を高尚とする考え方には与しません。四皓のように、超俗と世俗を自在に行き来する(もごよう)ことを良しとしています。


白居易は、元稹の四皓に対する評価に同調せずに、歴史を大展開して、一見、理詰めで、説得しています。

しかし、私は、白居易のこの左脳を動員したかに見える、詩の中に、大親友である元稹が息災であって欲しいという、熱い想いを感じざるを得ません。

李斯は宦官の趙高に殺されました。元稹もまた宦官の仇士良を顔を殴られ、左遷させられました。白居易は、李斯に元稹を投影し、自重を迫っているようです。


唐では安史の乱(755年-763年)以降、次第に、宦官の勢力が増していきました。

余談ですが、宦官の王守澄(?-835年)は、憲宗(在位、805年-820年)、穆宗(在位、820年-824年)、敬宗(在位、824年-827年)、文宗(827年-840年)の4代の廃立に関わりました。

文宗は、王守澄と仇士良を争わせて、共倒れを期待しました。結果、835年に王守澄は誅殺されましたが、甘露の変というクーデターにより、仇士良を中心とする宦官勢力は権力を掌握しました。仇士良は、文宗、武宗(在位、840年-846年)の2代にわたり、権勢を誇り、843年に死去しました。


繰り返しになりますが、白居易は、宦官の趙高が李斯を残酷な刑により処刑されたことを示し、元稹に自重を促したのだと思います。

酈食其も、韓信と功を争い、残酷な刑により処刑されました。彼は、死に際も、豪傑そのものでした。白居易は、李斯の次に、酈食其も挙げて、その二の舞にならぬように念を押しているようです。


白居易と元稹は、まっすぐな性格で、大親友です。白居易は、元稹には、息災であって欲しいゆえに、四皓のように、融通無碍であることも、決して悪いものではないと、言いたかったのでしょう。

白居易は、理路整然と歴史を紐解き、答える詩を大展開しています。一見、その左脳の働きが、全開のように思えますが、実は、白居易の心情は、大親友元稹の息災を強く願うものであったに相違ないでしょう。そして、その気持ちは、元稹の心に深く伝わったものと思います。


画像は白居易