其の六は雉媒(ちばい)に和する詩です。

和する詩ですから、元稹の詩に賛同した作品です。雉媒は、おとりの雉(キジ)のことで、人間に飼い慣らされ、同類を捕まえるために、働かされます。

元稹の詩は810年ですので、その時の複雑な政治状況の中で、何か裏切られることがあったのでしょう。

唐では、貴族集団、科挙官僚、節度使、宦官、外戚などにより非常に複雑な政治力学が働いていました。

科挙は隋代598年から清代1905年まで続いた官僚登用試験です。もともと、貴族集団を抑え、皇帝の権力を強化するためにスタートしたものです。しかし、科挙の合格のためには時間的余裕、経済的余裕が必要ですので、貴族集団にはアドバンテージがありました。

節度使は、地方(藩鎮)の軍政府の長官とでも言うべきもので、後に割拠して、唐の滅亡の要因の一つになりました。安史の乱(755年-763年)は、安禄山、史思明によるものですが、安禄山は3つの節度使を兼任していました。しかし、乱後は、もともと10程度であった節度使は40から50くらいに増やされていきました。唐の滅亡後の五代十国時代(906年-960年)の分裂は、節度使の独立によるものでした。憲宗(在位、805年-820年)の時代には、節度使を抑制する政策が採られ、一次奏功していました。元稹の左遷が憲宗時代の810年です。

外戚は、皇帝の母方の親族です。唐の時代で最も有名なのは、武氏で、皇帝の母親である武則天(高宗の妻、中宗と睿宗の母)が帝位に就き、武周政権(690年-705年)を建てました。武則天は、中国史上唯一の女性皇帝です。

宦官は、文宗(827年-840年)により一掃されようとしましたが、835年の甘露の変により失敗しました。そして、宦官の仇士良は、文宗、武宗(在位、840年-846年)の2代にわたり、権勢を誇り、843年に死去しました。元稹の左遷の前に、元稹を殴った人物は仇士良です。

この時代は、節度使を抑える過程で、宦官が勢力を拡大したともいえます。

貴族集団については、808年から849年まで、いわゆる「牛李の党争」がありました。牛党(牛僧孺、李宗閔。二人とも科挙に合格した進士。)と李党(李徳裕)との間の権力党争で、唐滅亡の原因の一つとも言われています。牛党は西魏、北周、隋、唐の皇帝を出した関隴集団(関は関中(陝西省)、隴は隴西(甘粛省の一部)。武川鎮軍閥ともいう)、李党は後漢以来の山東貴族でした。

元稹の一族は北魏の皇帝を輩出しておりますから関隴集団でしょう。また、牛李の党争の終結時の宰相は白敏中ですが、彼は牛党でした。彼は、白居易のはとこです。このため、元稹と白居易は背景が同じ関隴集団だったことが窺えます。また、二人は進士で、科挙の成績優秀者でした。

元白の生きた時代は、以上のように非常に複雑に異なる権力集団がひしめいていました。

余談ですが、白敏中は、自ら「十姓胡」であると述べたそうです(※)。当時、西突厥十姓と呼びました。突厥は542年に成立し、582年に東西に分裂しました。テュルク(トルコ)系遊牧国家です。

しかし、白氏のルーツと考えられる亀茲が西突厥に属していたというだけで、白氏はトルコ系ではありません。皇甫氏に嫁いだ白敏中の娘の墓誌には、白孝徳と縁続きであるとの記載があるそうです。白孝徳亀茲王の弟です。

亀茲の白氏は突厥の成立のはるか昔の91年から存在していますし、白氏を名乗る前なら、紀元前まで遡ることができます。

玄奘三蔵『大慈恩寺三蔵法師伝』のウイグル語訳には、亀茲大月氏の遺留部族であるとの記載があるそうです。また、初代の三蔵老師である鳩摩羅什の父鳩摩羅炎(クマーラヤーナ)はインドのカシミールの貴族、母耆婆(シーヴァー)は亀茲王の妹です。なぜ、インドと亀茲(現在の新疆ウイグル自治区アクス地方クチャ市)で結婚したのでしょうか。この点、インドのクシャーナ朝は、大月氏が建てたものですから、合点がいきます。大月氏(もとは月氏)はイラン系遊牧民族(サカ、サカイ、スキタイなど)と考えられています。

関隴集団鮮卑が中心です。匈奴に滅ぼされた東胡は烏桓山と鮮卑山に逃れ、烏桓鮮卑になったと伝えられています。同じく、月氏も匈奴に敗れ、大月氏小月氏に分かれたそうです。

話を戻します。

元稹の左遷の時には、すでに牛李の党争は勃発していましたので、もしかすると、そういった複雑な政治状況のなかで、雉媒のような人間に遭遇したのでしょう。

白居易の詩には、裏切りに関する故事が2つ挙げられております。一つは、秦末から漢の初期にかけての部将の張耳陳余の話です。彼らは、「刎頸の友」となりましたが、後に敵対しました。二人は秦末の陳勝・呉広の乱のさなかに、趙王家の末裔の趙歇を探して趙王として擁立しています。また、もう一つは春秋戦国時代の晋の趙襄子(趙無恤)の故事です。彼は代王である姉婿を殺し、姉は自害しました。

春秋戦国時代(紀元前770年から紀元前221年の秦の統一まで)の後半である戦国時代韓・魏・趙に分裂した時からとされています。これには、韓・魏・趙が諸侯に列せられた年である「紀元前403年説」と智氏を滅ぼし実質的な独立をした「紀元前453年説」があります。後者の説のときの王が趙襄子です。裏切りの2つの故事は、なぜか「趙」で繋がります。

そして、決して裏切らない象徴として2つ挙げています。一つは、古代伝説中の鳳凰の一種である神鳥の青鸞です。青鸞は伴侶と添い遂げると考えられていました。また、もう一つは前漢の任安の故事です。任安が裏切らなかった相手は衛青です。二つの裏切らない象徴は、なぜか「青」でつながります。

元白の親しい間柄の中では、裏切りの2つの故事と裏切らない象徴の2つから、何か具体的に思い当たることがあったのかも知れません。


※姚薇元『北朝胡姓考』(中華書局、1962年)374頁〜375頁。


画像は白居易