以前のブログ「白居易と私」で書いたことを家系図にしてみました。力基(諱(いみな)一植)が私です。


水原白氏は、白居易の堂兄(いとこ)である白宇経を鼻祖(始祖)とし、その14代孫の白昌稷を中始祖とします。


水原白氏では、白昌稷を1世としてカウントします。その子孫は29派に分かれ、それぞれに派祖がいます。


29派中、もっとも直系筋なのが、禅亭公派で、その派祖は白仁寛(11世)です。


余談ですが、現代アートのナムジュンパイク、韓国時代劇ドラマのペク・ドンスは水原白氏ですので、一族です。


李氏朝鮮において両班(ヤンバン)制度(貴族制度)は私の曾祖父が幼い頃の1894年に廃止されました。


曾祖父は、白宗權の玄孫、白龍周の曾孫、白鳳韶の孫です。つまり、私の祖父は両班の長男でした(注)。


(注)李氏朝鮮では三代先祖無顯官」であれば「両班」ではなくなりました。三代先祖とは、父、祖父、曾祖父です。私の祖父からみて、三代先祖は白鳳韶ですから、祖父は両班の定義には当てはまります。しかし、祖父は両班制度廃止後の生まれですので、両班(白明範)の長男と表現しました(2023.12.18、この注を追記)。

  高祖父(白明範の父、白鎔瑞の祖父)は白樂善(1871-1949年)といいます。大韓帝国の官報などに、判任官の白樂善の名前の記載が複数ありました。この他、承政院日記、朝鮮王朝実録にも白樂善の名前の記載が見受けられます。高祖父と同一人物なのか、今後解明できればと思います(2024年4月30日追記)。


祖父は大韓帝国時代に生まれ、満洲に行き、自動車教習所、ダンスホールなどを経営していました。日中韓のトリリンガルでした。そして、満洲で、祖母と出会いました。祖母の両親は福岡県の八女から満洲に行きました。


私の諱(いみな)は「一植」です。これは、義父(伯父)の名前から「一」の文字をもらい、一族の世代を表す文字である「植」の文字を合わせたものです。


このブログは「つくもひとうえのブログ」です。私のペンネームの「つくもひとうえ」は、白一植を訓読みしたものです。つくもは、次ぐ百(もも)、つまり、九十九(百引く一イコール「白」)です。白寿のお祝いは九十九歳ですね。


私には、子供がいませんので、弟の長男(甥)が家系を継ぐことになります。甥の諱は「士煥」です。「士」は、派祖の仁寛の字(あざな)の「士達」、また、甥の高祖父の高祖父の宗權の字(あざな)の「士宗」からいただきました。甥は宗權の雲孫(8代後の孫)にあたります。「煥」は、一族の世代を表す文字です。甥の本名は非公開としますが、実は、意味的にはこの諱と同じです。


この一族の世代を表す文字は、陰陽五行説にしたがって、木火土金水で循環しています。


祖父の名前は「鎔瑞」ですが、一族の祖父の同世代は「鎔」の文字を用います。「かねへん」なので、五行説でいうと「金」ですね。


その次の父の世代は「水」です。そこで、水に関係する「さんずい」のある「淳」の文字などを使います。義父(伯父)の名前には、「淳」の文字はありませんが、やはり、水を表す「さんずい」を使った文字に、長男を意味する「一」の文字が使われています。


義父(伯父)には子供がいなかったので、その弟の長男(私)、二男(私の弟)を養子にしました。


私の世代は「木」なので「植」の文字などを使います。義父(伯父)は、私に「稔」と名付けたかったのですが、色々あって「力基」になりました。実は「力基」の「基」の文字には「土」があるので、世代違い(基を使うのは29世、私の世代は37世)になり、微妙になってしまいます(他の世代の文字を外すのがならわしです。)。もし「稔」であれば「木」に関連しました。そこで、私は、諱(いみな)として「一植」を持っています。


私の次の世代は「火」です。前述のとおり、後継の甥には、諱(いみな)として「士煥」を持たせています。


韓国時代劇ドラマの「七日の王妃」に、イ・ヨクの子供時代の役としてペクスンファン(白承煥)さんが出演されていました。名前の作り方からして、きっと同じ一族で、私の次の世代のような気がします。


その次の世代は「土」ですね。「壽」の文字などを使います。以下は一覧表です。


ただ、近現代においては、あまり厳密には考えずに、好きな名前をつけるようになっています。




私の場合には、普段使用する戸籍上の名前をむしろ字(あざな)のように考えて、別に諱(いみな)を持つというスタイルを採っていると言えます。