賦得古原草送別

Fùdé gǔyuáncǎo sòngbié.

古原の草をテーマを与えられ「送別」(の詩を書く)


離離原上草 一歲一枯榮

Iílí yuánshàngcǎo, yísuì yìkū róng.

離離(りり)としている(草が生い茂る様子)原上の草は、一年ごとに枯れては栄えています。


野火燒不盡 春風吹又生

yěhuǒ shāobújìn, chūnfēng chuī yòu shēng.

野火は焼き尽くさずに、春風が吹き又生じます。


遠芳侵古道 晴翠接荒城

yuǎnfāng qīn gǔdào, qíngcuì jiē huāngchéng.

遠くに芳る草は古道に入り込み、陽光のもとで緑鮮やかな草は荒城に接しています。


又送王孫去 萋萋滿別情

yòu sòng wángsūn qù, qīqī mǎn biéqíng.

また、王孫が行くのを送り、萋萋(せいせい)として(草が生い茂る様子)、別離の情が満ちます。


これは、科挙の試験問題に対する白居易の答案の一つです。古原の草のテーマで書けという問いに対し、送別の詩を書きました。


この詩を読むと、二つの作品が頭に浮かびます。一つは、杜甫(712-770)の春望です。


その冒頭部分の

國破山河在、城春草木深

guópò shānhé zài,chéngchūn cǎomù shēn.

國破れて山河在り、城春にして草木深し。

です。


春望には、安禄山の反乱(安史の乱)(755-763年)によって国の都長安が陥ちて宮殿や町などが破壊されたことが描かれています。


もう一つは、屈原(BC339-BC278年)の楚辞の招隠士第十二です。

その中の一節の

王孫遊兮不歸、春草生兮萋萋

wángsūn yóu xī bùguī, chūncǎo shēng xī qīqī.

王孫遊んで帰らず、春草生じて萋萋(せいせい)たり。

です。


白居易は、772-846年の人ですから、安禄山の乱は、彼よりも上の世代の話です。しかし、彼の作品の中で非常に有名な長恨歌のモチーフは、当時の玄宗皇帝と楊貴妃です。あれほどの名作を生むほどですから、白居易の時代にも、人々の精神の中に、その爪痕は強く残っていたと思われます。


ただ、賦得古原草送別を創作したときに、唐の都、長安が杜甫の春望にでてくるような状況かといえば、そうではないと思います。


次に、科挙の試験官や受験生なら、賦得古原草送別の終わりの部分にある「王孫」と「萋萋」の文字をみたら、すぐに、屈原の作品を連想するでしょう。


屈原は、楚の公族で、命がけで王を諌めた直言居士です。結局は、聞き入れられずに、入水し、亡くなってしまいました。愛国者の詩人として名高く、代表作は、長編の「離騒」です。


日本では高校で「漁父辞(漁夫(ぎょほ)の辞)」を習った人もいるでしょう。入水前の漁父とのやりとりが描かれています。


賦得古原草送別の冒頭の「離離」と終わりの句にある「萋萋」の意味はほぼ同じです。私は、冒頭の「離離」から、屈原の「離騒」を連想しました。また、「離」の文字はタイトルにある「送別」の「別」、終わりの句の「滿別情」の「別」の文字と同じ意味でもあります。この二文字を合わせれば離別、別離という言葉になります。


楚辞の「王孫遊兮不歸」の「王孫」は屈原のことで、遊ぶは旅に出るというような意味です。「離騒」は、顓頊(せんぎょく、五帝の一)の子孫である主人公が、世間との妥協を拒否して理想を求め旅にでる話です。「離騒」の主人公のモデルは、屈原自身でしょう。


白居易は、賦得古原草送別で、杜甫の「國破れて山河在り」と屈原の愛国心を重ねて合わせて、直言居士がいなくなり、奸臣だけになると、結局国が滅んで、後の祭りになると言いたかったのでしょうか。


賦得古原草送別では、「又(また)、王孫が行くのを送り」とあり、「又」の文字から、一度のことではなく、繰り返されていることが、認められます。


杜甫の春望は、安禄山の乱を想起させますから、また、玄宗皇帝の時代と同じ轍を踏むであろうという危機感でしょうか。それとも、別の意味でしょうか。


科挙の試験官や受験者からすれば、賦得古原草送別は一見し、春望や楚辞を用いていて、詩に関する知識が豊富であるし、形式的にも内容的にも見事なできだと思うでしょう。あるいは、一歩進んで、白居易が直言居士であることまで見抜くかもしれません。


ところで、今回は、もう一つ、私の想像力の膨らみから、別の考察をしてみたいと思います。


白居易のはとこで、20歳年下、唐の宰相であった白敏中(792-862年)の娘の墓には、先祖に白孝德(714-779年)がいるとの記載があります。先祖と言っても、世代が上の一族という意味だと思います。白孝德は、北庭行営節度使(将軍)、吏部尚書、太子少傅などを歴任しました。また、彼は、亀茲王の白孝節(在位、719-760年代?)の弟です。


白居易が胡人であることはよく知られていますし、白居易の世代(白敏中(はとこ)、白宇経(いとこ))との官職の類似性から、白孝德と一族である可能性は高いと思います。この辺りの考察は「白居易と元稹(6)補」で書きました。


亀茲国は、今の新疆ウイグル自治区アクス地区クチャにあった国です。安禄山の乱以降、吐蕃(チベット)が河西回廊を占領したため、亀茲国は中国史の記録から途絶えてしまいました。史実によれば、787年、吐蕃は安西(天山の南側、亀茲を含む)と北庭(天山の北側)を陥落しました。


白孝節の次代の王が白環であること、840年に、回鶻(ウイグル)が占領したことは分かっています。


白居易が科挙の試験を受けたのは800年ですが、賦得古原草送別は16歳の時の作品と言われています。そうすると、時期的には、西域で吐蕃が台頭し、亀茲国との通信が途絶えた時期と符合します。当時は、安禄山の乱が収束したものの、唐の覇権が衰え、西域が不安定になっていました。


おそらく、白孝節、白孝德兄弟は、白居易の世代よりも1世代から3世代上の世代だと思います。そうすると、もしかすると、賦得古原草送別の「王孫」は、本当に亀茲国の王孫の可能性があります。


屈原は、「王孫遊んで(旅に出て)帰らず」といい、白居易は、「また、王孫が行くのを送る」と言います。表現は似て非なるものです。もしかすると、危機にある西域に、唐から戻っていった一族のことを言っているのかもしれません。


「賦得古原草送別」の「遠芳侵古道 晴翠接荒城」の句は、「遠方では、河西回廊が侵されて、亀茲国は國破れて山河在りの状態である」ことを言っている気がしてしまうのは、想像をめぐらし過ぎでしょうか。もしかすると、白居易は、「古原草」のテーマから、祖先の地の大草原をイメージしたのかもしれません。



画像は白居易