まずは、(21)の箇所を書き下したいと思います。

 

嗚呼(ああ)微之(びし)よ。年は知命を過ぎたり、之を夭とは謂(い)わず。位は將相を兼ねたり、之を少とは謂(い)わず。然(しか)れども未だ吾(わ)が民を康(やす)んぜず、未だ吾が道を盡(つ)くさず。公の心に在りては、則ち了(お)えずと為すなり。嗟(なげ)かわしきかな。道廣くして俗(せま)きは、時なるかな。心長くして運短かきは、命なるかな。嗚呼微之よ、已(や)んぬるかな。

 

微之は元稹の字(あざな)です。知名は五十歳のことです。「論語の五十にして天命を知る」から来ています。夭は、若くして亡くなることです。將相は、将軍と宰相のことです。

 

要するに、宰相、将軍(節度使)までなったけれども、高い理想を実現するには、世間があまりに狭すぎて、残念であったといっています。

 

その理由ですが、(20)の箇所を書き下して、見てみたいと思います。

 

抑(そもそも)天の與(くみ)せざるか。將(は)た人の幸いならざるか。予(よ)嘗(かつ)て悲しめり、公が始めには直躬(ちょくきゅう)を以て人を律し、勤めて之を行えば、則ち坎澟(かんらん)して偶(あ)わず、瘴(しょうきゃう)に謫(たく)せらるること凡(およ)そ十年、髮班白(はんはく)にして歸(かえ)り來(きた)れるを。次には權道を以て世を濟(すく)い、變にして之を通ぜんとせしに、又齟齬して安からず、相位(しょうい)に居ること僅かに三月、席煖(あたた)まらずして罷(や)め去れるを。通介にして進退、卒(つい)に心を獲ず。是を以て法理の用は、一職を舉ぐるに止まりて、庶官(しょかん)に布(し)かず、仁義の澤は、一方を惠むに止まりて、四海に周(あまね)からず。故(ゆえ)に公の心は足(あ)かざるなり。時に逢うも時に逢わざると同じく、位を得るも位を得ざると同じく、富貴も浮雲と同じなり。何となれば、時に行うも道は未だ行はれず、身は遇うも心は遇わざればなり。執友(しつゆう)居易、獨り其の心を知り、泣を以て翰(ふで)を濡(ぬ)らし、銘を墓に書して曰く、

 

白居易が悲しんだことは、まず、元稹が正しく仕事をしたにも関わらず、10年も左遷され白髪混じりになって帰ってきたこと、次に、宰相に就任してわずか3ヶ月で罷免されたことであると述べています。そして、元稹の仁義の恩恵は、その権限の範囲のみで、世の中に及ばなかったために、元稹の心は満足していなかった。執友(親友の)の白居易だけがその心を知っている。そのような趣旨を言っています。

 

    については、(2)から(6)の箇所より看取できます。書き下して、内容を見ていきましょう。

 

2)服除の明年に、監察御史を授けらる。蜀に使いし、任敬仲(じんけいちゅう)を獄に按じて獄情を得たり。又劾奏すらく、東川の帥(すい)詔條(しょうじょう)に違(たが)いて籍稅(せきぜい)過ぎたり、と。又塗山甫(とさんほ)等八十八家の冤事を奏平す。名は三川(さんせん)を動かし、三川の人之を募い、其の後多くの公の姓字を以て其の子に名づく。

 

監察御史とは、官吏の監察、地方の巡察をする検察官のような役職です。元稹は任敬仲が訴えた案件を糾明したとあります。また、東川の節度使がルールを破って税金を取り過ぎたことを、弾劾して奏上し、塗山甫(とさんほ)ら八十八家の冤罪事件を奏上して解決したとあります。そして、三川(東川を含む3つの地方)の人たちのなかには、元稹の姓名から、文字をとって、子供に名付けた人が多くいたと書かれています。元稹は、民衆にとって、正義の監察御史だったといえるエピソードです。

 

その後も、元稹の実績が続くのですが、飛ばして、(3の箇所を書き下します。

 

3) 凡そ此(か)くのごとき者(こと)數十事、或ときは奏し、或るとき劾し、或るときは移して、歳餘(さいよ)にして皆舉げて之を正せり。內外の權寵(けんちょう)の臣奈何(いかん)ともする無きも、咸(みな)意に快からず。會(たまたま)河南尹(かなんいん)に法の如からざる事有り、公故事を引きて奏して之を攝(せつ)こと甚だ急なり。是れより先快からざる者の、其の便に乘じ相(あい)噪嗾(そうそう)して、公專達にして威を作(な)せりというに坐し、黜(ちゅっ)せられて江陵士曹掾と為る。

 

ここでは、元稹が監察御史として、バリバリ仕事をした結果、権力を持っていたり、寵愛を受けている臣の中には彼を快く思っていないものがいて、元稹が河南尹(官職)の罪を追及したときに、彼の独断だとの非難を沸き起こして、結局、元稹は罷免され、地方(江陵)の下級役人に左遷させられたと言っています。

 

4) の箇所は、居ること四年にして、通州司馬に徙(うつ)る、(5の箇所は、又四年にして、虢州(かくしゅう)長史に移るの意で、いずれも地方の属官です。

 

しかし、(6) の箇所に至ると、元稹、転機が訪れたことが書かれています。書き下すと次の通りです。

 

(6)長慶の初め、穆宗が位を嗣ぐに、舊(もと)より公の名を聞けば、膳部員外郎を以て徵用せらる。既(すで)に至りて、祠部郎中・賜緋魚袋・知制誥に𨍭(てん)ず。

 

皇帝の代替わりにより、中央に戻り、皇帝の側近に栄転したことが書かれています。

 

以上のように、元稹は、監察御史という職責を全うしたにも関わらず、却って敵を作り、結局は左遷させられ、戻ってきたときには、10年の月日が経過して、白髪混じりになっていた。それが、白居易が悲しんだことの一つです。

 

②については、(7)(8)の箇所に書かれています。それぞれ書き下します。

 

7)擢(ぬき)んでて中書舍人・賜紫金魚袋・翰林學士承旨を授く。尋(つ)いで工部侍郎を拝し、守本官・同中書門下平章事に旋(うつ)す。公既に位を得て、方(まさ)に將(まさ)に己が志を行て、君が知に答えんとす。

 

8)何(いくばく)も無くして、憸人(せんじん)の飛語を以て同位に搆(かま)うること有り。詔(みことのり)下り按驗(あんけん)するに無狀なれば、上其の誣(ぶ)なるを知るも、大體を全くして、同位と兩(ふた)つながら之を罷めしむ。出(い)でて同州刺史と為る。

 

元稹は、穆宗の信任厚く、元稹は同中書門下平章事、つまり、宰相にまで出世します。しかしながら、誣告をされ、地方の長官に左遷されてしまいました。穆宗も、元稹を無実とは知りながら、時局を判断しての処置でした。

 

これが、白居易が悲しんだことの二つ目です。

 

ちなみに、同州は陝西省渭南市で、白居易家族墓地があります。

 

③については、(9)から(17)の箇所を見てみましょう。

 

9)始めて至るとき、吏に急に民に緩(かん)にし、事を省き用を節し、歲ごとに羡財(せんざい)千萬を収めて、以て亡戶の逋租(ほそ)を補う。其の餘は弊に因って事を制し、上を膽(にぎわ)し下を利する者(こと)甚(はなは)だ多し。

 

元稹は、「急吏緩民、省事節用(jí lì huǎn mín, shěngshì jiéyòng)」であったというのは、役人には猶予はなく、民衆には緩い、余計な事は省いて、費用を節約したということです。そして、倹約して、逃散した民の税の未納に補填し、弊害があれば対応をしたので、官民ともに良かったということです。

 

10)二年にして、御史大夫・浙東觀察使に改められる。將(まさ)に同を去らんとするに同の耆幼鰥獨(きようかんどく)、泣戀(きゅうれん)すること慈父母に別るるが如く、道を遮(さえぎ)りて遏(とど)むべからざる。送詔使(そうしょうし)導呵(どうか)揮鞭(きべん)し血を見る者有りて、路(みち)闢(ひら)き而る後行くを得たり。 

 

[大意]二年で、御史大夫・浙東觀察使に改められたが、同州から去ろうとする時に老人、子供、一人ものたちが泣いて慕って、慈父母と別れるようで、道を遮り、止めることができなかった。詔(みことのり)を送りに来た使者が、叱り導き、鞭をふるって血を見るものがいたので、道が開いてそれで行くことができたのである。

 

同州刺史として、「急吏緩民、省事節用」を第一として、民衆にとても愛されたということがわかるエピソードです。

 

御史大夫は以前元稹が監察御史として勤めていた御史台の長官です。監察御史時代に、彼を左遷に追い込んだ人たちからすると恐ろしい人事ですね。浙東觀察使は、越州を含む七つの州の民政を視察しました。

 

11)是れより先、明州歲ごとに海物を進むるに、其の淡蚶非禮の味尤(もっと)も速やかに壞(やぶ)るれば、其の程を課し日に數百里を馳せしむ。公越に至て、未だ下車せざるに、趍(すみ)やかに奏して罷(や)めさしむ。越より京師に抵(いた)るまで、郵夫の肩を息(やす)むるを獲る者萬計、道路に之を歌舞す。

 

[大意]これ以前から明州(今の浙江省寧波市)では毎年海産物を中央に献上していましたが、淡菜(貝の干物のようなもの)海蚶(あか貝)は非礼の味で最も早くダメになるので、1日数百里を走らせていました。元稹は、越州に来て、下車をする前に、すぐに上奏してやめさせました。越から長安に至るまで、肩を休めることができた配達夫は万を数え、道路で喜んで歌って踊りました。

 

これも「急吏緩民、省事節用」の実践です。万人もの人が全く意味のない重い苦労を背負わされていたのをやめさせました。

 

12)明年には、沃瘠(よくせき)を辯じ、貧富を察し、勞逸を均しくして以て稅籍を定む。越人之を便とし、流庸無く、逋賦(ほふ)無し。

 

[大意]明年には、肥沃な土地と、痩せた土地を区分し、貧富の差をよく見て、労苦と安逸を等しくして税金の簿冊を整えました。越人は便利と思い、出稼ぎも税金の未納もなくなりました。

 

やはり、「急吏緩民、省事節用」の実践です。

 

13)又明年には、吏に命じて七郡の人に課して冬に陂塘(はとう)を築き、春に水雨を貯え、夏に旱苗(かんびょう)に溉(そそ)がしむ。農人(のうじん)は之に賴りて、凶年なく、餓殍(がひょう)無し。

 

[大意]また、明年には、役人に命じて七郡の人に課して冬に溜池を作らせ、春に雨水を貯めさせ、夏に乾いた苗に注がせました。農民はこれに頼り、凶作の年も、餓死もなくなりました。

 

やはり、善政を布いていたことがよく分かるエピソードです。

 

14)越に在ること八載、政成り課高し。上之を知り、就(すなわ)ち禮部尚書を加え、璽書を降して慰諭(いゆ)し、以て旌寵(せいちょう)を示せり。又尚書左丞を以て徴還し、旋(つ)いで戶部尚書・鄂岳節度使に改む。

 

[大意]越に八年滞在し、政治の成果は高かった。皇帝はこれを知り、すぐに禮部尚書を加増し、璽書を降してなぐさめさとし、表彰しました。また、尚書左丞として都で栄転させ、ついで戶部尚書・鄂岳節度使に改められました。

 

禮部、戶部は、それぞれ行政機関である六部の一つで、尚書は長官です。閣僚、大臣クラスと言ってよいでしょう。尚書左丞は、副宰相といって良いと思います。鄂岳節度使は、鄂、岳を含む六州を管轄する将軍です。

 

一時は、宰相から追い落とされたものの、「急吏緩民、省事節用」を実践して、副宰相兼将軍にまで登りました。


(続きは「白居易と元稹(5)」下にお進みください。)




画像は白居易