はじめに


今回は、白居易(772-846年)の作品で、長恨歌(806年)とともによく知られる琵琶行(816年)について書きたいと思います。


琵琶行は、2017年に、90年代生まれの徒有琴の作曲・編曲により、奇然、沈謐仁の歌でヒットしました。YouTubeなどで視聴ができます。悠久の時を超えた作詞家・作曲家のコラボで、白居易もきっと草葉の陰で喜んでいるのではないでしょうか。




白居易は、800年に科挙に合格し、803年に任官しました。811年に母の陳氏が亡くなり、三年間服喪し、814年から太子左賛善太夫になりますが、815年に武元衡(宰相)の暗殺事件が起きた際、首謀者を捕らえるよう上奏した廉(かど)で、越権行為と咎められ、江州司馬に左遷されました。


それから、2年目の年に、潯陽江(江西省九江での揚子江の呼び名)で、来客を送る際に、偶々聴こえてきた琵琶の音の主を探して、船で宴を開き、その音色を聴きました。その見事な手並みに感じ入り、その境遇を聞いたところ、もともと都で人気があった琵琶の名手でしたが、今は落ちぶれているという話を聞きます。そして、白居易は自身の左遷させられた境遇と重ね合わせて、涙します。それを「行」という古代歌謡の形式の詩にしたのが、琵琶行です。

 霓裳羽衣曲(げいしょうういのきょく)


琵琶行で目を引くのは、秋月と潯陽江です。


琵琶行の中で、演奏された曲のうちの1つは、霓裳で、正式には霓裳羽衣曲(げいしょうういのきょく)といい、現代では月兒高ともいい、「月」をイメージさせます。


日本でも羽衣伝説があるので羽衣には馴染みがあると思います。霓裳羽衣は、虹と羽の衣裳、すなわち仙女や天女が着るようなヒラヒラした衣裳のことです。


ちなみに、日本の伝統芸能の能の羽衣(はごろも)の天人は月の「月宮殿」から来ておりました。月には白の衣の天女15人、黒の衣の天女の15人が舞い、月の満ち欠けを担当しているという件(くだり)がありました。


霓裳羽衣曲は、唐の玄宗皇帝が「月宮殿」で遊んだ折に、仙女たちが舞い踊る姿をみて、楊貴妃のために作らせたものとの言い伝えがあります。


楊貴妃は傾国の美女として知られ、実際、安史の乱(755-763年)が起こり唐は乱れました。このため、霓裳は傾国を象徴する禁忌の曲とされたそうです。


YouTubeで、霓裳羽衣曲で検索すると、「真正的霓裳羽衣曲 最美的楊貴妃」というタイトルの非常に豪華な動画があります。とても面白くて私は好きです。ただ、そこで流れている曲はおそらく本物ではありません。


また、霓裳羽衣曲は西域の楽舞で、唐の開元年間(玄宗皇帝の治世の前半期)に、西涼(敦煌)節度使(辺境の総司令官)楊敬述がもたらしたものとも言われています。


霓裳羽衣曲は、西域の美女たちが舞う雰囲気のエキゾチックな曲だったと推察します。



 亀茲国


ところで、以前、西域にあった亀茲国は、もしかすると、白居易のルーツかもしれないという話を書きました(「白居易は月氏の末裔か?」)。


亀茲国は、現在の新疆ウイグル自治区アクス地区のクチャにあった白氏王室が治めた国です。亀茲国の住民は大月氏(西に追われた月氏)の遺留部族(『大慈恩寺三蔵法師伝』)と言われております(ここでいう三蔵法師は玄奘のこと)。


余談ですが、亀茲王白純の妹は、カシミールの貴族鳩摩羅炎と結婚して、亀茲で、鳩摩羅什(くまらじゅう)を産みました。鳩摩羅什は、法華経の漢訳者で、初代三蔵です。カシミールとはずいぶん遠くだと不思議に思いますが、かつて中央アジアから北インドにかけて大月氏によるクシャーナ朝があったことを考えると、もしかすると、同じ大月氏同士ということで、当たり前のことだったのかもしれません。


さて、アクス地区にあるキジル石窟の壁画には、天女が舞う絵があります。キジル石窟でググって、画像を選択すると色々みれます。


また、琵琶は西域から亀茲を通って中国に入りました。今でも、亀茲琵琶(胡琵琶)といいます(ちなみに、琵琶行に出てくるものは四弦で、亀茲琵琶は五弦です。)。


前述した玄宗皇帝が見たとされる「月宮殿」はこの世のものではありませんが、もしかすると、エキゾチックな西域の亀茲国や月氏の文化を象徴しているのかもしれません。

[後編に続く]

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画像は白居易