[前編より続く]

しかし、誰かに足を引っ張られたのでしょうか、白龍周は、罪人に落とされてしまいます。韓国の時代劇ドラマの視聴者なら知っていると思いますが、『承政院日記』の記述に義禁府(王命により大罪人を取り調べた部署)が出てきます。しかし、幸い過去に在籍した4つの官署の同僚たちの嘆願があったようです。


そして、1847年に戸曹正郎(正五品)、春秋館の記注官(従五品、正六品)として復帰を果たします。


戸曹は、六曹(六つの官庁)の一つで、財務省にあたります。戸曹正郎は戸曹参議の下に3人置かれました。


春秋館は、王朝の記録の編纂を所管しました。


1853年に全羅道都事(従五品)という地方の官職に就きます。降格あるいは左遷なのでしょうか。


しかし、1854年に承文院校理(従五品)、司憲府掌令(正四品)となり、中央に復帰を果たします。


承文院は、外交文書を司ります。校理はキョリと発音するそうです。


ちなみに、韓国の時代劇ドラマのイニョン王妃の男のキム・ブンドは、弘文館校理(キョリ)です。弘文館は、経書を管理し、司憲府、司諌院と合わせて三司とされました。


司憲府は検察庁のような機関です。承令(チャンリョン)(正四品)は、持平(チピョン)(正五品)、執義(チビ)(正三品)の中間の官職です。


ちなみに、有名な韓国の時代劇ドラマ、トンイに登場したシム・ウンテクは持平から執義になっていました。


そして、白龍周は、1857年、承文判校(正三品堂下官)となり、通政大夫(正三品堂上官)が加えられました。47歳にして、晴れて、堂上官になりました。


その後、1858年には、兵曹参知、兵曹参議になりますが、病気がちとなりました。


兵曹は、六曹(六つの官庁)の一つで、防衛省にあたります。参知も参議も正三品堂上官です。


以上が『承政院日記』における白龍周の記録です。


 白鳳韶


次に、白龍周の白鳳韶について見てみたいと思います。


白鳳韶 1846-1878)は、憲宗の時代(在位1834-1849)に生まれました。配偶者は、礪山宋氏。


『水原白氏大同譜』によれば、通徳郎(正五品)とあります。


しかし、彼は、高宗の時代(在位1863-1897)に、32歳の若さでこの世を去っており、残念ながら『承政院日記』ではその軌跡を辿れませんでした。


当時の韓国は、攘夷と開国の激動の時代ですから、何かあったのかもしれません。彼が亡くなったとき、彼の子(私の高祖父)は7歳でした。高祖父とは祖父の祖父です。


 祖父


私の祖父は白宗權の来孫、白龍周の玄孫、白鳳韶の曾孫にあたります。私自身は、白宗權の仍孫、白龍周の昆孫、白鳳韶の来孫にあたります。(ここでいう祖父とは父の父ですので、私は、男系子孫ということになります。)。


 曾祖父のはとこ


私は、以前、韓国の宗親会のご紹介で、私の曾祖父のはとこの方と電話でお話をしました。その方は日本統治時代を経験していたので、少し日本語ができ、会話をすることができました。


その方は私の祖父のことを覚えていました。その方と、私の共通の祖先が白龍周です。


 教訓


私は、『承政院日記』により、白龍周が、罪人に落とされたり、左遷、降格などの苦杯を舐めながらも、最終的に堂上官になったことを知りました。


水原白氏の鼻祖、白居易の堂兄(いとこ)の白宇経も、唐の吏部尚書でしたが、讒訴により、780年に新羅に移り、783年に宰相(僕射司空兼大司徒)に昇りました。


私には、白龍周が、祖先の白宇経の生き方を学んで、それをなぞったように見えてなりません。


私は、白龍周の軌跡を辿ることで、人生山あり谷あり、最後まで勇気を持って、生き抜くことの大切さを教わりました。


また、白龍周が、かつて在籍した4つの官署の同僚たちの助けにより、罪を免れたことを知り、「人と接するには常に誠実であるように」と教わった気がします。


2023年のお彼岸の時期に先祖を偲んで記す。


※大韓帝国の官報などに、判任官の白樂善の名前の記載が複数ありました。この他、承政院日記、朝鮮王朝実録にも白樂善の名前の記載が見受けられます。高祖父(1871-1949年)の可能性があるため、今後解明できればと思います。2024年4月27日追記。




画像は、白仁寛の墓碑。

白仁寛は、白宇経(白居易のいとこ)を鼻祖とする水原白氏の29派のうち、最も直系筋にあたる禅亭公派の派祖。

本文で紹介した白宗權、白龍周、白鳳韶は、それぞれ禅亭公派の30世、31世、32世にあたります。

なお、水原白氏では、中始祖の白昌稷を1世として数えます。このため、白仁寛は11世。