1997年(正しくは1970年)に白敏中(唐の宰相)の娘(嫁ぎ先は皇甫氏)の墓に、祖先の中に白孝德(714年から779年)がいると記載されているのが発見されました。場所は河南省伊川県彭婆郷許営村北萬安山南麓です。祖先といっても、ここでは世代が上の縁続きという趣旨だと考えられます。白孝德は、唐の武将で、刑部尚書、吏部尚書、太子少傅等を歴任したとされます。また、亀茲国王の白孝節の弟、つまり、王弟です。亀茲王は西暦91年より白姓を名乗っております。


白敏中は、白居易、白宇経の「はとこ」にあたりますから、上の記載が事実であれば、白居易の一族のルーツは、亀茲王室ということになります。白居易は中国の三大詩人の一人で、唐の刑部尚書、追贈尚書右僕射(宰相)で、白宇経は唐の吏部尚書、新羅の宰相(僕射司空兼大司徒)です(二人はいとこ同士)。


白敏中、白居易のいずれも、白公勝(楚の公族で、一時楚王を名乗った)や白起(秦の常勝将軍)の末裔を公称しておりますが、実は胡人(少数民族)である(亀茲人である)とは、学者の間ではほぼ通説であると言えると思います。上の白敏中の娘の墓の記載も、それを裏付けるものといえます。


亀茲国は、今の新疆ウイグル自治区アクス地区にかつてあった国です。『大慈恩寺三蔵法師伝』のウイグル語訳には、亀茲は大月氏の遺留部族であるとの記載があるようです。言語学において、彼らがトカラ語を話していた可能性が指摘されています。トカラ語は、日本語と同様に、膠着語的な性格を有していた言語であったことがわかっています。


大月氏は、もとは月氏で匈奴に追われ、西に逃れたのが大月氏、今の青海省あたりに残ったのが小月氏とされます。


もし、白居易の一族が月氏の末裔であるなら、その堂兄(いとこ)の白宇経の50代孫(51世)にあたる私も月氏の末裔ということになり、非常に面白いです。




画像は白居易