脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座 -7ページ目

脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座

かつてガチガチの9条平和主義者だった私がその大矛盾に気づいてしまいました。
様々なテーマでリベラルの視点から、具体的・論理的に脱9条論を展開します。

  出所したのに刑務所の規則を順守している元受刑者

 

“押しつけ憲法論”について、前回の記事

朝日新聞“押しつけ憲法論は現実逃避である”こそが現実逃避である。】

から一部抜粋する。

 

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私自身は個人的には“押しつけ”との表現は好きではない。“押しつけ”も何も日本は当時、独立国では無かったわけで、占領国が被占領国の法律を定めるのは当然のことであるからだ。

いわば刑務所の規則が刑務所当局によって作られるのがアタリマエなのと同じで、これをもって“受刑者に刑務所規則が押しつけられた”などと論じても意味が無い。そういうことである。

受刑者になるというのはそういうことであり、戦争に負けるとはそういうことである。

 

問題なのは当時“押しつけ”られたことなどではなく、今も進んで“被占領国の憲法”を使い続けていることなのだ。(論理的に完全に破綻している憲法9条はなぜ存在しているのか・参照)

 

つまり刑務所の例で言えば、刑期を終え、出所したのに刑務所の規則をありがたく順守している元受刑者。そういう状態であるといえる。

 

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   “ショーシャンクの空に”のレッド(モーガン・フリーマン)と日本人の姿

 

“出所したのに刑務所の規則を順守している元受刑者”と言って思い出すのが映画“ショーシャンクの空に”である。モーガン・フリーマン演じる受刑者レッドが40年の服役の後仮出所する。が、仕事についたはいいが、トイレに行く度に上司の許可を得る。あきれた上司が言う。

“いちいち断らんで、勝手に行け”

己に染み付いてしまった“囚人根性”を嫌悪しつつもこれを打開するすべを持たないレッド。唯一残された道は再び犯罪に手を染め,仮釈放を取り消され刑務所に戻ることか。

 

で、憲法をめぐる日本の現状である。被占領国を終えて独立国となったのに、被占領国の憲法をありがたく持ち続けている日本。“囚人根性”ならぬ“被占領国根性”が染み付いてしまった日本国民。しかもレッドと違い、そのことを自覚すらしていない9条系日本国民。

 

そういえば元衆院議員で自らの体験をつずった“獄窓記”の著者である山本譲司氏がどこかで言っていた。

“刑務所に居るってことは一面とてもラクなことなんです。規則と命令に従っていれば何も自分で判断しなくていいですから。”

“でもそういう刑務所に居続けると本当に社会に対応できない人間になってしまうんです。”

 

正に9条支持の日本人の姿である。世界で何が起ころうと9条に従ってさえいれば何も自分で判断しなくていい。日々変わりゆく世界の変化に全く対応できない。

すっかり染み付いてしまったこの“被占領国根性”“囚人根性”。

 

    真の自由を実感し旅立つレッド

 

だがレッドは思い直す。

“いやその前にやることがある。アンディとの約束を果たすことだ。”

刑務所で友人となったアンデイは、無実の罪で服役したにも関わらず、自暴自棄にならず、常に希望を持ち、人間の尊厳を失わず、自由を求めこれを実現し、刑務所長の不当な弾圧と戦い、ついには不可能と言われた脱獄を果たす。彼とは出所したら会おうと約束していた。

国境を超え、アンデイに会いに行くことを決めた時、レッドは初めて“自由”を感じる。出所した時にも感じることの無かった“真の自由”を。彼は希望への旅立ちに向かう。あのアンデイに会うために国境を越える。

“囚人根性”から脱し、真の自由と人間の尊厳を取り戻すレッド。

 

    9条からの脱却が意味するもの

 

日本人にとって、9条から脱却するべきなのは、単に安全保障上の必要性からではない。

安全保障に関しては、9条を変えずとも、与党は今までどおりその都度必要な措置を、憲法違反などモノトモセズ取っていくだろう。野党もまた今までどおり、その時だけは憲法違反と騒ぎつつ、時が経てばその措置の必要性を認識し無言の追認を重ねてゆく。

警察予備隊の創設、PKO 法、海外給油などなど。そして今後も集団的自衛権、駆けつけ警護などが同じ道を歩むことだろう。(【変な主張5】確かに自衛隊は憲法違反だが9条がハドメと成って来た・参照)

それはそれで実務上は何の問題もないともいえる。

 

だがここで思い出す、“囚人根性”から脱し、自らの意思で真の自由と人間の尊厳を取り戻したレッドを。

 

日本人だってもう“被占領国根性”から脱したいではないか。

 

被占領国の憲法から脱し自らの手で憲法を制定することは、“被占領国根性”から脱し、真の自由と国民の尊厳を取り戻すことなのだ。日本国と日本国民の、未来への新たな旅立ちなのだ。

 

 

憲法公布から70年を迎えた11月3日、朝日新聞一面、編集委員・大野博人氏の論説である。

押しつけ憲法論は現実逃避

との見出しだ。

 

大野氏によれば

“憲法押しつけ論”はグローバル化における、“英国の欧州連合離脱”や“米大統領選のトランプの登場”と同列なものであり、“押し付け論”は“政治家が国境のない世界から国の枠に戻れば解決すると呼びかける”人々の心を揺らす運動の一つなんだそうだ。

そして“自主憲法にすれば新しいステージに踏み出せるような幻想を振りまく。それが「押しつけ憲法論」の正体”だそうである。

大野氏によれば“押し付け憲法論”は完全にタチの悪いポピュリズム扱いだ。

 

もちろんその論拠など何処にも示されていない。つまり大野氏の思い込みを言い張っているだけである。まあ、相変わらずの9条人のタワゴトであると言ってしまえばそれまでであるが。

 

“押しつけ憲法論”はあくまで歴史的事実である。これをを批判するのであれば、当然公布当時を振り返り新たな歴史的事実なり解釈なりを提示して、現憲法は“押し付け”などではないと論じるべきだろう。

 

私自身は個人的には“押しつけ”との表現は好きではない。“押しつけ”も何も日本は当時、独立国では無かったわけで、占領国が被占領国の法律を定めるのは当然のことであるからだ。

いわば刑務所の規則が刑務所当局によって作られるのがアタリマエなのと同じで、これを持って“受刑者に刑務所規則が押しつけられた”などと論じても意味が無い。そういうことである。

受刑者になるというのはそういうことであり、戦争に負けるとはそういうことである。

 

問題なのは当時“押しつけ”られたことなどではなく、今も進んで“被占領国の憲法”を使い続けていることなのだ。(論理的に完全に破綻している憲法9条はなぜ存在しているのか・参照)

 

つまり刑務所の例で言えば、刑期を終え、出所したのに刑務所の規則をありがたく順守している受刑者。そういう状態であるといえる。

  (映画・“ショーシャンクの空に”から見る“脱9条精神” 参照)

 

そうした歴史的“現実”からも、現状の実相からも目を背け、根拠の無い、根拠を示すことも出来ない思い込みを言い張り、人々の不安を煽る。

更には“国境のない世界”に向かえば世界の処問題は解決するとの“幻想を振りまく”。

現実世界で、実質“国境のない”状態であるイラク・シリア周辺あるいはパレスチナで今何が起こっているのか、あえて言うまでもあるまい。

 

こうした大野氏と朝日新聞の姿勢こそが正に“現実逃避”でありポピュリズムの典型であるといえよう。

(“憲法守れ運動のポピュリズム度を検定する”参照)

 

 

 


 加藤紘一氏の葬儀における、YKKの盟友山崎拓氏の弔辞である。

“9条は日本の平和を守っているんだよ。と加藤氏は言った”
“まさに日本の政界、最強最高のリベラルがこの世を去った。”


お願いだから“9条派=リベラル”って図式はもうやめてくれってば。

民進党の新代表に“9条は絶対に守りぬく”という蓮舫氏が選ばれた。
もちろんこんな民進党を私はリベラル政党とは認めません。
 理想のリベラル社会を作った時にその国を9条でどうやって守るんですか。

まあこれで民進党は今後も、少なくとも安全保障問題についてはポピュリズム政党としてやっていくことが明確になったわけだが。
9条守れ運動のポピュリズム度を検定する ・参照)
当然、リベラリズムとポピュリズムは相いれません。

私はリベラルだけどダンコ “脱9条”です。

日本のガラパゴスリベラルはも
限界だ ・参照)