脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座 -2ページ目

脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座

かつてガチガチの9条平和主義者だった私がその大矛盾に気づいてしまいました。
様々なテーマでリベラルの視点から、具体的・論理的に脱9条論を展開します。

こんな報道が流れたらどうだろう。

 

『天皇陛下 「いいじゃないか」 2017年安部首相に語る 自民党憲法草案』

 

トンデモナイ話しである。明らかな「天皇の政治利用」であり、もちろん憲法違反である。事実であろうとなかろうと。もちろん護憲派メデイアは大問題とするだろう。

 

が朝日新聞は同様の報道を平気でやる。

2017年5月3日憲法記念日の朝日新聞、一面トップの見出しである。

 

『昭和天皇 「いいじゃないか」 1946年幣原元首相に語る 憲法GHQ草案』

 

もはや“護憲のためなら違憲も辞さず”というところか

護憲派朝日の論理的破綻、政治的破綻、倫理的破綻、ここに極まれり、である。

 

【補足】

もちろん私は天皇に関する歴史研究や表現の自由を規制すべし、等と言っているのではない。それらは憲法で保障された当然の権利である。

ただ今回程度の“新しい研究成果”があったのならば、普通、学芸欄なり文化欄でとりあげれば良いだけのハナシだろう。

これを敢えて憲法記念日の一面トップに掲載するところに政治的意図が明確に現れている、ということだ。(コメント欄 3,4参照)

 

 

 

ご無沙汰してます。 

前回の記事、『憲法9条は“権力の暴走”を阻止できるのか』では究極の脱9条論を書いてしまった。

で、もう書ききった感があって、この先まとまった「脱9条論」を書くことはないだろうと言うのが現在の心境です。

 

そんな中久しぶりにあの「護憲派ブロガーGさん」が

『“9条改正は時期尚早だ”論が護憲派に広がっているのかな』にコメントを寄せてくれた。せっかくなので紹介して私の雑感を述べることにします。

 

Gさんのコメント

 

批判じゃないよ

 

「みんななかま」で悪いのでしょうか?「悪の組織」の団結力をリベラルとしては見習いたいものです。「みんな違ってそれでいい」けれど、共通点でしかつながらないというのも人間でしょう。でないと「違い」を肯定できないはずです。
泥さんの「他国で尊敬される、兵士という職業」が日本でなぜそうでないのかを別の日にアップしましたが。改憲派右派が持っている「戦前回帰願望」の「脱」を先に望みたいものです。

 

私のコメント

 

みんななかま」で悪いのでしょうか

って、「みんな仲間」でいいとか悪いとかの話をしているのじゃないですよ。

「憲法論議」にしろ「安全保障論議」にしろ、これは「政策」論議なわけでしょう。「政策論議」における「仲間」とは「共通の政策を掲げている」ということにほかならない。「共通の趣味を持っている」とか「共通の友人がいる」とか言う問題では無いはずです。

「共通の敵がいる」事を「仲間」とするのは、「敵の敵は味方」論として、戦術としては認めるけど「政策」にはなりえない。

戦乱下では「敵の敵は味方」論でよりマシな政権を作るのも現実的対応だけど、日本はもちろん戦乱下にはない。そんな状況で「政策」にもならない「仲間作り」をしてどうなるのか。

 

この記事で取り上げているのは、

“現在の「護憲」状況を見れば「自衛隊は必要」派と「自衛隊は解体すべし」派が「護憲」の名のもとに「仲間」となっている”

という現実です。この両派、どう見たって「共通の政策」なんか無い。安全保障上、180度正反対の政策でしょう。例えばこういう野合「護憲派」が仮に議会で多数派を取った場合自衛隊はどうするのか、どんな政策を実行するのか。答えはカンタン、「何も出来ない」です。

つまり現在の「護憲運動」は政策運動にも政治運動にも成り得ないってことです。

ただ「改憲反対」って駄々をこねてるだけ、です。仮にも「護憲運動」を政治運動にするのであれば、この両派は互いを「敵」と認定すべきでしょう。

「護憲運動」の目的が「政策の実現」ではなく「仲間づくり」であるのなら、それはそれで結構だけど。

 

これは現在の野党勢力の構図にも如実に現れていて、民進党なんか改憲派と護憲派が同居していて更には「自衛隊解体」派の共産党とも選挙協力をするって言う。こんな「選挙協力」で政権とったらどうなるのか。何ができるのか。

せめて原発だけでも明確にNOを提示できれば私だって民進党支持を打ち出してもいいんだがそれすら出来ない。だって党内には原発反対派と推進派が同居しているんだから。

党内の共通の政策と言ったら「安倍はダメ」ってだけ。その先の政策なんか何もない。もはやこんなの「政党」とはいえない。ただの「安倍が嫌いならみんな仲間」のサークル活動だ。

もちろんそんなサークル活動は「共謀罪」で取り締まるべし等と言っているのではないですよ。

 

「悪の組織」の団結力をリベラルとしては見習いたい

 

意味不明。でも一応言っておくと、私もリベラルだが「見習いたい悪の組織の団結力」などない。

あるいはこのブログにしばしばコメントを頂くTさんなど「根っからの保守」を自認されている「改憲派」だが、戦前の体制への憎悪はなみなみならぬ物がある、そういう方である。

 

「他国で尊敬される、兵士という職業」が日本でなぜそうでないのか、とかカンタンに言うなあ。そんなデータがあるんですか。

確かにかつてはそういう風潮があった。泥さんて方がいつ頃自衛官だったのか知らないけどその頃ははそんなだったんだろう。私も「護憲」だった頃は「兵士」なんて「人殺しを職業とする軽蔑すべき人種」だった。

もちろん今は違う。そして日本社会全体の考えとしても、みんな自衛官には敬意と感謝の念を持っていると思うけどなあ。特に最近東アジア情勢が厳しさを増し、また「安保法」で「法的」に実戦もアリと言う時代になってもなお自衛官にとどまる方々を、今どきそのような目で見てる国民てほとんどいないんじゃないかなあ。まあGさんの周りには相変わらず昔ながらの「自衛官蔑視」を持つ人が多いのかもしれないが。そういえば民主党政権下で、仙谷由人官房長官が自衛隊を“暴力装置”呼ばわりしていたなあ。

まあこのテーマは今後各種世論調査で調査項目に加えると興味深いですね。 

 

「戦前回帰願望」の連中はホントに困ったもんだけど、私はそれほど気にはしていない。だっていくら彼らが「願望」したって日本は「戦前」に「回帰」などできないから。あの時代がああであったのは世界史と日本史の接点の中で「そうなるべく事情」があったからで、(もちろんああならないで済んだ分岐点とかはいくつかあったにしろ)現在は事情が全く違う。特定の人物やら政治勢力の力で「戦前回帰」などできっこないっていうのが私の見解。

さらには私は日本国民の良識と日本の民主主義を信頼してるっていうのもあるし。だから「戦前回帰」を求めてる一般国民なんか一割もいないであろう中、「戦前回帰」なんか起こりようもないと。(もちろん現在が百点満点の社会であると言っているのではない。)まあ「安倍内閣を支持」したり「改憲勢力に踊らされる」庶民を「愚民」としか見られない人達には私の「民主主義への信頼」など、暴論愚論でしかないだろうけどね。

まあ「日本の民主主義は信頼に足るか」とかは論証のしようが無いのだけれど。少なくとも世界を見渡せば欧米以外でこれだけ民主主義が形式にしろ定着・機能している国はないことは確かだ。もちろんこれも百点満点には程遠いけど。

 

「戦前回帰願望」の「脱」を先に望みたいものです。

 

「先に」ってことは、次には「脱9条」も認めるってことかしら。やっぱりG、さんも「9条改正は容認・ただし時期尚早」派かな。

何にしろ、恐れるに足らない「戦前回帰願望派」なんかに振り回されて、9条の姿、安全保障のあるべき姿、あるいは日本社会のあるべき姿が見えなくなっているのなら、つまらない話ではあるなあ。

このブログで繰り返し述べているように、立憲主義を尊重するのなら、「脱9条」しかありえない。

 

それにしても「護憲派Gさん」からこういう「言葉尻」の話を、しかも「批判じゃないよ」とかの但し書き付きでコメントされてもなあ。他の記事でもっと真っ向から「脱9条論」を掲げたものを真っ向から批判して欲しいもんだなあ。

ただし批判はあくまで、「私が述べたことに則して、具体的事実を元に論理的に」を「基本原則」としておねがいします。

例えば『憲法9条は“権力の暴走”を阻止できるのか』なんかを真っ向から批判して欲しいもんです。

 

 

追記 2017・5月7日

Gさんのコメントにしばしば登場し、この記事でも取り上げた、元自衛官にして護憲の“論客”泥憲和さんが急逝されたとの新聞記事を見つけた。63の若さだそうである。彼は自らのSNSでも私の“脱9条論”を取り上げてくれたという。もちろん批判的にだが。方法論は異なるにしろ、平和を心から愛するものとして哀悼の意を捧げる。ご冥福をお祈りします。

 

 

   米国の司法は“トランプの暴走”を阻止したが・・・

 

 護憲派の主張の一つに

 “憲法9条が権力の暴走を阻止する”というのがある。9条に関連する“権力の暴走”とは言うまでもなく“戦争への暴走”の事だ。果たして日本の9条に本当にそんな力があるのだろうか。

 

 トランプの大統領令による”7か国からの入国禁止令”は米連邦控訴裁判所による違憲判決であっけなく無効とされた。大統領権限が強大であるとされる米国ですら司法の判断でこれだけの事ができる。民主国家における“司法の力”を我々日本人は再確認させられたのではないか。司法は憲法の力をもって“権力の暴走”を阻止できるのだ、と

 では日本でも憲法と司法に同様の力が期待できるのだろうか。特に9条に関わる問題で。

 

   “自衛隊違憲訴訟”を振り返ると・・・

 

 歴史を振り返る。

 現在でこそ自衛隊は必要そして合憲と考えられるのが一般的となっているが、日本国憲法発布当時、そんなことはなかった。(私は自衛隊必要・違憲の立場だが。)

 言うまでもなく憲法9条は“戦争放棄”と“軍事力の不保持”を明言している。当時の一般的日本人は当然これを言葉通りに解釈していた。

 そんな中1950年警察予備隊が創設され、日本は再軍備の道を歩み始める。

 “9条の平和主義”を文字通り信じていた国民にとってはこれは完全な9条への裏切り政策である。正に“権力の暴走”“戦争への暴走”と考えられた。

 そんな中社会党議員により“警察予備隊違憲訴訟”が起こされた。 が最高裁は“原告適格無し”として門前払い判決を下した。

 その後“長沼ナイキ訴訟”“砂川訴訟”等、直接自衛隊の違憲を問う訴訟ではないにしろ、間接的に自衛隊の違憲性が大きな争点となる訴訟が起こされた。が結果は“警察予備隊違憲訴訟”と同様門前払いである。最高裁は自衛隊の憲法判断から逃避した。

 司法は“権力の暴走”を阻止できなかったのだ。

 

   “9条に関わる憲法判断”は門前払い

 

 これが日本の司法と9条の関係である。

 “9条が権力の暴走を阻止する”とか“教科書的正論”を言ってみても意味が無いのである。9条の文面が権力の暴走を阻止するわけではもちろんない。司法が9条を使って権力の暴走を止めるということだ。しかし日本の司法は“9条に関わる憲法判断は門前払い”とする判決を前例、判例として確定させた。(門前払いも司法用語で判例というのかどうかは知らないが。)

 

 今後、例えば護憲派が心配するように、安倍政権が“戦争への暴走”を始めたとしよう。ここで少数野党がナンボ“憲法違反だ”などと国会で攻め立てても採決されれば全く無力であるのは実証済みである。では護憲政党なり市民有志なりが“9条違反”だとして訴訟を起こせばどうか。 

 結果は明白である。

 門前払いだ。日本の司法では政権の政策が9条に違反しているかどうか等“判断しない”事が司法的に“確定”しているのである。日本の司法は判例や確定事例を覆すことは基本的にはない。

(これまでの“判例の変更”といえば最近では遺産相続の問題、再婚可能期間の問題、子の認知と国籍の問題、など、ほとんどが“民事”系の判例であり、9条のような“大きな判例”が変更されたことは皆無である。)

 

 つまり日本の9条は“権力の暴走を阻止する”ことなど出来ないのだ。

 

 もちろん私はこんな 法治国家も三権分立もない 無法状態が好ましいと思っているわけではない。本来であれば最初の“警察予備隊違憲訴訟”の時点で最高裁は“日本語と国民の常識”に従って“警察予備隊は9条に違反する”との判決を出すべきだった。その上で国会は憲法改正を動議し国民の理解を得て国民投票を実施し、9条を改正する。そうすることで現在ズタズタにされてしまった、日本の立憲主義・三権分立のこの状態を回避することが出来た。

 

 だが時の司法を責めるのは酷なのかもしれない。日本は敗戦直後であり被占領国から独立したばかりでもあった。この独立を守らなければならない一方で、“国民の期待を背負った平和憲法”も守らなければならない。国民の生活も守らなければいけない。民主主義も定着していない。そんな“時代”が違憲判決を許さなかったというべきなのかもしれない。

 どっちにしろ時間を巻き戻すことは出来ない。

 

   日本の司法と9条の関係をリセットする方法がある

 

 しかし日本の司法が違憲判決において全く無力かというとそんなことはない。議員定数などの問題では連続して違憲判決が出されている。9条以外ではやれるのである。

 

 ということは今からでも三権分立を取り戻し、司法・憲法に“戦争に関わる権力の暴走”を阻止する力を取り戻す可能性を持った方法がある。

 “9条を改正する”ことだ。ここではどんな文面にすべきかなどには触れない。とにかく現9条を一旦破棄し新9条を制定すれば、これは過去の判例・確定事例に囚われることはなくなる。

 司法は現在の民主国家の常識に照らして司法判断を下すことができる。今回の米国の事例も日本の司法関係者には大きな影響を及ぼしているかもしれない。司法の役割・力とは何であるのか、と。

 現在の日本はあの当時の、敗戦国でもなければ、独立直後の“新興国”でもない。すでに民主国家として歩みはじめて70年近くを過ごしている。

 今こそ9条をめぐる憲法と司法の関係のリセットが可能な時代が来ているのだ。

 このリセットに時期尚早論などありえない。一刻でも早いほうがいいのである。

 

 そのためにも“脱9条”である。