脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座 -19ページ目

脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座

かつてガチガチの9条平和主義者だった私がその大矛盾に気づいてしまいました。
様々なテーマでリベラルの視点から、具体的・論理的に脱9条論を展開します。

【答え】 

 9条さんの主張はどれもそうなんですが、そのコトバだけ、その一文だけ取り上げれば全くその通りなんです。命が何より大切に決まっているし、人殺しはいけないに決まっているし、人殺しをするために自衛隊に入る奴はいない。

 

 でも人間社会はそんな単純なものじゃないでしょう。

 

 

 

 “主張3.9条を改正するって?じゃあ戦争してもいいっていうのか”の項で述べたように、世界にはいまだ“やむを得ない戦争”が存在するわけです。当然双方による“人殺し”が行われている。

 

 

 

 アメリカによるベトナムへの侵略戦争においても、悪玉であるアメリカの空爆や住民虐殺・枯葉剤攻撃ばかり取り挙げられるけど、一方で間違いなくベトナムの兵士だってアメリカの兵士を殺している。(アメリカ軍の死者は5万8000人!)この事であなたはこのベトナムの兵士を“人殺し”呼ばわりするのですか。

 

 

 

 リビアでのカダフィによる虐殺を止めるためにNATO軍が行った空爆でだって、カダフィの傭兵が殺され、一般住民も巻き添えで殺されました。そのことでNATO軍の兵士一人一人も“人殺し”呼ばわりされるべきなのでしょうか。

  コソボ紛争を終結させたNATOの空爆も同様です。

 

 

 まあ幸いな事に実際には9条さんたちが彼らを“人殺し”呼ばわりしたという話は聞きません。しかしこのことは決して彼らが現実を直視した故ではないようです。リビアやコソボでのNATO軍の空爆について9条派の、少なくとも“とにかく人殺しはいけない”という9条派のコメントは聞いたことがありません。彼らはこのような“やむを得ない戦争”やそれに伴う“やむを得ない人殺し”については“無かったこと”にする。



 

 

 

 彼らにとってベトナムやリビアで起こったことは、あくまでアメリカの空爆やカダフィの虐殺が全てであって、それに抵抗し戦って“人殺し”もして“正義”を勝ち取った事実など存在しないのでしょう。9条の理念に都合の悪い現実は全て無かったことにされてしまう。

 

 だから世界で何が起ころうとも相変わらず“戦争はいけない、人殺しはいけない”と繰り返す。さらにはここでも“9条の定理”(主張1参照) が適用され、日本の周辺で戦争が起これば日本だけが悪いに決まっているのだから自衛官による人殺しはあってはならない、となります。

 

 

 

 “自衛官が人殺しをするために自衛隊に入ったのではない”のはアタリマエです。そんな目的で入隊して目的を達成した自衛官など今まで一人もいませんから。まあそれはともかく。

 

 確かに数十年前までは自衛隊に入るといえば、職のない若者が給料もらって資格や免許取って、適当なときに辞めるって雰囲気はありました。(もちろんこの時代にだって真面目な隊員もいたはずですが。)中国も北朝鮮も今のような力もなく、東西冷戦時代で対ソ連についてはアメリカが核によるガチガチの防衛線を敷いていて、かつ9条による規制も今よりずっと厳しくて、まあ自衛隊の出番などまず無いと思われていた“古キ良キ時代”の話です。

 

 しかし今は違う。日本の隣には世界有数のキケンな国が3つも存在し、日々様々な挑発行為を繰り返しています。一方9条のハドメなどすっかり緩みきって、自衛隊は国連決議もない活動に、インド洋やイラクまで出掛けてゆく時代だ。こんな時代に入隊する若者が“万が一の覚悟”ももっていないなどとどうして言えるのでしょう。日々厳しい訓練を受けながら、そうした厳しい世界情勢も学んでいる。自衛官であるという事がどういう事であるのか嫌でも自覚せざるをえないわけです。当然最後には自分の命・相手の生命をかけて戦う覚悟はいつでも出来ている、と考えるのが自然でしょう。それはどこの国の軍人でも、少なくとも近代化を終えた民主国家の軍人であれば当然の感覚です。

 

 このあたり9条さんたちにとっては、兵隊といえば赤紙一枚で戦地に送られ上官に殴られそして殺し殺されてゆく、あのイメージしか無い。近代化も民主化も終えていないかつての日本においてはそれも一つの事実だったのかもしれません。が、今は国家としての日本の状況は全く違います。今はゼイタク言わなければ何やったって食える時代です。生活保護で食っている若者だって少なからずいる。そんな時代に志願して日々厳しい訓練を伴う自衛官という職業を選んだ若者の意思というものをどうお考えでしょうか。

 

 “自衛官になった若者だって人殺しをするために自衛隊に入ったのではない”とか言って、あたかも自衛官の心情に共感し同情しているかのようですが実際どうなのでしょう。

 

 自衛官にかぎらず警察官にしろ消防官にしろ海上保安官にしろ、職業として社会の安全を守り人々の生命と財産を守ることに、いざとなったら自分の命も投げ出す覚悟を持って日々業務にあたっている人がいることが理解できないのでしょうか。

いや、そういったそもそも危険を伴う事が前提としてある特殊な公務員に限りません。東日本大震災の津波の時、防災無線で最後まで避難を呼びかけて自らの命を落とした広報担当の女性職員もいました。

彼女一人の命を犠牲にしてその何倍もの命を救うことが出来た。そういうことが実世界にはあるということです。

“命が大事”などというアタリマエでありかつ時にはトンチンカンな同情だか共感だかの発言がいかに失礼なものであるかを考えていただきたいものです。

 

 

 

 

 

 

 
【答え】 
 侵略戦争に敗れ異民族に支配された国の惨状を知ろうとしない人が平気でこんなことを言うようです。現在のチベットそして過去に植民地だった国々。そうした事実に目を向けずに、白旗掲げろなどと簡単にいう人に限って、かつての日本の植民地支配の加害性を言い募るのだから勝手なものです。彼らの理屈に従えば、日本の“侵略行為”に徹底抗戦をせずアッサリ白旗掲げて植民地支配を受け入れた彼らこそ、日本国憲法九条のカガミとして讃えられるべきではないのか。

 

 

 そうだ、いっそ日韓併合に同意して署名した当時の韓国首相李完用には“土井たかこ平和賞”とか作って表彰したらどうだろう。以下の文を添えて。

 

 “あなたは1910年、日本国からの併合案に対し交戦を以って応じること無く、平和裏にこの問題を解決しました。これはまさにわが日本国憲法の平和主義のさきがけとなる外交行為でした。よってここに第一回土井たか子平和賞を与え称えるものです。”

 

 韓国民は怒るだろうなー。

 

(ここでも歴史認識はあくまで護憲派の皆さんの主流的歴史観に基づいています)

   
“領土問題なんてどうでもいい・尖閣なんて中国にあげてしまえ、という9条さんへ”も参照
【変な主張11】戦争の歴史をもっと学ぶべきである。日本はアジアの国々にひどいことをした。また日本の一般庶民もひどい生活を強いられた。徴兵により多くの人生が奪われた。この歴史を繰り返してはならない。

【答え】

“あの戦争”で全ての“戦争”を語ることなど出来ない

こうした主張についてはまず歴史認識について話を始めるものなのでしょう。あの戦争についての認識を一致させないことには議論がかみ合わないと考えるのが一般的です。しかしここではそれをしません。あの戦争はどういうものだったのかという認識についてはあえて護憲派の皆さんの主流的歴史認識を“丸呑み”したうえで話を進めます。

 


 

すなわち、“日本はアジアの国々や太平洋の各地に侵略戦争を仕掛けた。朝鮮と台湾は植民地とした上、圧政をしき、中国には謀略により戦争をふっかけ多くの一般人を虐殺した。一方国内では赤紙一枚で勝ち目のない戦争に狩りだした多くの若者を犬死にさせた。沖縄では日本軍によって一般住民が自死を強いられた。こうした日本による悪行を止めるために広島・長崎に原爆が落とされようやく戦争は集結した。” 

 

 

 

 こうした事実が本当にあったとしてもそれはあくまで“あの戦争”の話です。日本国として反省すべき点があるのなら、しっかり検証してあやまちは繰り返さないようにしなくてはいけない。しかしそれはあくまで“あの戦争の話”であって、“戦争”の一般論にはなりません。“あの戦争”で日本が“反省すべき失敗”をしたとしてもそれをもって戦争一般を語ることなど出来ないのです。

 

 

 

 “戦争の歴史”にはあの戦争のほかにも、身近な所ではベトナム戦争や朝鮮戦争があり、世界各地には植民地の圧政からの開放を目指した“独立戦争”もあります。それぞれの戦争にはそれぞれの事情と歴史があり、また後世の歴史の検証を経てなお“正義の戦争”といえるものも少なくありません

 

 戦争に関わった国はそれぞれの歴史の中でその戦争を検証し、教訓とすべきところは教訓とし、反省すべきところは反省し次の時代につなげて行くだけです。

 

 

 

 困った事に9条さんたちにとっては戦争といえば“あの戦争”、しかも“日本にとってのあの戦争”でしかありません。“あの戦争”とはたとえば朝鮮にとっては何だったのかを検証してみます。もちろん9条さんたちの歴史認識に基づいて、です。


  “朝鮮”にとって“あの戦争”は何だったのか

 

 

 時代はすこしさかのぼりますが、“日本に強引に植民地にさせられ圧政を強いられた”とされる日韓併合。朝鮮の立場からこの歴史を振り返ったとき、“日本が悪い、朝鮮は悪くない”という検証だけでいいのかということです。いや9条さんの論理、“戦争はいけない、命が大事”に従えば、当時の朝鮮政府がここで反日戦争などに持ち込まず、話し合いで併合に同意した判断は全く正しかったことになります。後の中国のように日本に反撃して戦争に持込み“一般人が大量虐殺される”こともなかった。つまり日韓併合に、やむを得ずにしろ同意した当時の朝鮮政府の選択は9条の論理では正しかったことになる。だったら日本の植民地支配もメクジラ立てるほどのことじゃないし、日本も反省の必要などないことになる。

 


 

ってヘンでしょう、こんなリクツ。でも9条の精神が“人類普遍の真理”であるならそういうことになる。もちろん現在の朝鮮半島の政権も人々もこんな検証はしていない。彼らにとっての“あの戦争”とそれに先立つ日韓併合とは次のようなもので無ければおかしい。

 

 すなわち“日本が悪い、朝鮮は被害者だ。しかし朝鮮は話し合いによる併合など断固拒否すべきだった。命をかけてでも戦い、独立を守るべきであった。”と。

 

 こうした“反省”を踏まえているからこそ現在の韓国は経済力・軍事力を整え、徴兵制も敷き、二度と植民地になどならないようなりっぱな独立国になっている。これが彼らが“あの戦争”から学んだこと、です。

 

 

 

 “戦争の歴史を学ぶべき”とかカンタンに言うけれど、ひとつの“戦争の歴史”にもこれだけの幅がある。“戦争しました。失敗しました。もう戦争しません。軍隊も持ちません”って、そんなカンタンなもんじゃないでしょうって。日本が今後もしあの時の朝鮮の立場に立つことがあったら“話し合いで併合に同意する”ってことですか。だって、“戦争はいけない、命が大事”なんだから。

 

   日本の“反戦デモ”と世界の“反戦デモ”の違い

 

 戦争と言えば全て同じもので個別の歴史や事情などいちいち見ない、という9条さんたち(と言うよりは日本人全般か)の特徴を世界の中で見るとつぎのエピソードが思い出されます。

 

 

 

 イラク戦争の時、ヨーロッパなどでは数万人・数十万人規模の“反戦デモ”が繰り広げられました。一方日本では、東京で一回だけ数千人が集まったのが最大だったようです。この落差は何なのか。国や都市の人口規模を考えるとその落差はもっと大きなものになります。

 

 ヨーロッパなどのデモでは自国の国旗を掲げる姿も多く見られました。日本の反戦デモで日の丸を掲げる人などまあ絶対にいません。

 

 

 

 デモの規模の差と国旗の問題、この差は何なのか。要因は2つあると思います。

 

 一つ目は、要するに日本の反戦デモは戦争一般に反対しているのですね。で、悪い戦争などするのは日本がまず悪いという“9条の定理”(主張1参 がありますから、その“悪の象徴”である日の丸掲げるヤツなど居るわけもない。

 

 

 

 二つ目。一方で9条があるもんだから日本が戦争するはずはなく、もしさらにハドメがゆるんで“(主張参照) 日本が参戦するとしても“9条のココロを理解しないオロカな自衛隊員が行くだけのことだから自分にはカンケイない”と考えるのがフツウで、だから人も集まらない。

   
  ヨーロッパの“反戦デモ”は戦争一般に反対しているのではない

 ヨーロッパにおいてはこの2点が圧倒的に異なる。まずあの反戦デモは戦争一般に反対していたのでは全くない。ハッキリと“イラク戦争に”反対しているのです。大義も無ければ従って国連決議もない“イラク戦争に”反対している。そんなイラク戦争に、自分の愛する祖国が加担しようとしていることに反対している。こんな戦争に家族や恋人や友人が加担するのはゴメンだ、と。我が愛する祖国はそんなことをしてはいけない、と。その思いを込めて国旗を掲げる。

 

 ということは、愛する祖国を守るための戦争や、他国のことであれ信じられる正義のための戦争であれば自分自身、志願してでも戦う用意はいつでもある、ということです。もちろん国旗を高らかに掲げて。

 

 だからこそ数万人・数十万人の人々がデモに集まる。彼らにとって祖国や正義は当然そこにあるものなどでは決して無く、戦って勝ち取るものなのです。だから目の前に戦争があれば常に決断を迫られる。自分はこの戦争に参加するのか、拒否するのか、と。どちらにしても命がけの“戦い”です。“命が大事”だけれども、命より大事なものが彼らにはまちがいなく、ある。

 


 

 ヨーロッパなどにおける、このような国家と国民の一体感、そしてそれを象徴する国旗の存在を多くの日本人は見ようとしません。日本においては国家と国民の関係はいまだに支配する者とされる者、です。だから国旗にしても、特に9条さんたちにとっては支配の象徴でしか無い。“国家の危機に皆で立ち向かおう”とでも言おうものなら、たちまち独裁者呼ばわりされてしまう。そんな、国民を支配したがるような政権であればさっさと打倒して自らが信頼出来る政権を作ればいいんですが、そうはならない。与党支持者ですら自分を国家の主役であるとは思えない。 

   
 ほぼ侵略されたことのない日本の幸福と不幸


 こうした差異を、日本人が劣悪なノーテンキ民族だからだというつもりはありません。なんといっても歴史が違う。大昔から侵略と略奪にさらされ城壁を築き都市国家を守ってきた民族と、有史以来、元寇と沖縄戦、それに続く米軍駐留以外、侵略された歴史を持たない日本人を比べても意味が無いでしょう。その元寇にしても鎌倉武士はよく戦ったとは言え、神風にも助けられて民族の記憶にはならなかったし、(というか、別に何もしなくても悪いようにはならない、という民族の記憶になったと言うべきか)戦後の米軍統治にしても、食えなかった戦時中よりも生活は良くなったぐらいのもんで、侵略された民族の苦しみなんて実質、沖縄県民しか味わったこと無いのだろう。(その沖縄県民にしても、侵略・占領され続けているウラミツラミはアメリカよりも、沖縄を切り捨て続けている日本政府に、より向けられているようですが。) 

 そうした歴史を顧みれば、日本人が本気で“戦争”と向き合えないのはやむをえないとはいえます。しかしだからこそ日本の周りに好戦的国家が挑発的行為を繰り返す今、“一般論ではない戦争”あるいは“あの戦争ではない戦争”というものと向き合う時が来たのだと言えます。

 


 

 しかしそれはそれとして、“平和憲法”のもと、“平和主義”だの“平和外交”だのを声高に叫ぶ日本社会が、大義なきイラク戦争に対し、政府はいち早く支持を表明、市民は3000万首都圏で最大でも数千人のデモとは、日本社会の“平和主義”の“薄っぺらさ”が露呈したことは確かでしょう。

 


 

 蛇足。イラク戦争開戦の頃、まだ9条さんだった私は、地元の反戦デモに繰り出して、子どもたちを率先して“戦争やめて、命が大事”などと叫んでいた。しかしなぜか手製のプラカードにはベニヤで日の丸作って“日本の国益は海外派兵をしないこと”とか書いて、まわりから白い目で見られていた。当然日の丸も“国益”というコトバも9条界ではタブーである。どうもこの頃から、私の中で“脱9条”の萌芽が始まっていたようだ。