脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座 -17ページ目

脱9条のススメ    護憲・リベラルのための憲法9条講座

かつてガチガチの9条平和主義者だった私がその大矛盾に気づいてしまいました。
様々なテーマでリベラルの視点から、具体的・論理的に脱9条論を展開します。

2013.7月

【お答えします】 
もちろん戦争なんかしない方がいいに決まっている。だが戦争というものを、正義とか悪とかのモノサシで測るのはそろそろ考えなおしてもいいのではないでしょうか。

  侵略を受けた国は“国の滅亡”か“植民地化”しか選べないのか

 まず、戦争は、仕掛ける側と受けて立つ側があって成立する。仕掛けられた側が、即時白旗を掲げてしまえば戦争は成立しません。で、その結果は二通り考えられます。一つ目は、仕掛けた側が圧倒的な侵略・暴力・略奪を尽くす事。もう一つは仕掛けた側が平和的統治を進め、仕掛けられた側がおとなしく支配下におさまること、です。つまり、もし戦争というものが絶対悪であって絶対に避けなければいけないものであるのなら、戦争を仕掛けられた国は武力による抵抗は許されず、この2つしか選択肢がないことになります。国として滅亡するか、植民地になるか、の2つ。これでよいのか。


  侵略に抵抗したベトナム・中国も悪なのか
  

 日本の歴史に身近な具体例を見てみます。

 

 例えばベトナム戦争。ごくごく大雑把に言ってしまうと、アメリカ合衆国が北ベトナムと南ベトナム民族解放戦線に仕掛けた戦争だ。これに対しベトナム側が無抵抗でアメリカの支配下に収まれば、ベトナム戦争は成立しませんでした。これが正しかったのか。アメリカの侵略に抵抗して戦争を成立させてしまったベトナム側も悪だったのか。

 

 あるいはもっと身近な“日中戦争”。日本軍の“侵略行為”に抵抗して戦争を成立させた“中国軍”も悪なのか。(注)

 

 戦争を絶対悪と定義すればそういうことになります。

 

もちろん世界の常識ではそんな事にはならない。平和外交を尽くしても戦争をしかけられ、なお外交を尽くしても戦争を避けられなければこれは武力によって反撃する以外手はない。しかし戦争を絶対悪と考えるとそれすらも許されないことになります。

 

もちろん交戦状態になっても同時並行で外交力を尽くし早期停戦を模索するのが文明国というものではあります。

 

 (注、ここでの歴史解釈についてはあくまで護憲派の主流的歴史観に基づくものとします。なぜならこの文は護憲派に向けて彼らの土俵の上で論じることに意味があるからです。)

  

 以上、まず仕掛けられた戦争にやむを得ず応戦する自衛戦争の正当性について述べました。

 

 次に戦争を仕掛ける場合にだって正当性がありうる事を述べます。

 

 (わ、そこの9条さん、気絶しないで、続きを聞いてくださいな。)


    一般市民を助けるための武力介入も悪なのか


 例えば最近の話ではリビア。

  一連の“アラブの春”の流れの中で、リビアにおいても反カダフィ勢力のデモが街にあふれました。だがとりあえずにしろ春を迎えられた他のアラブ諸国とは異なり、カダフィは退陣すること無く、外国の傭兵まで動員して半カダフィ派市民の虐殺を続けました。いくつかの国はカダフィに話し合いのテーブルに付くことを求め、またいくつかの国はカダフィに、家族・財産と共に自国への亡命を薦めました。(ただし日本国がこうした平和的解決を模索した形跡はない。) 

 なおも虐殺を続けるカダフィ派、つまりはリビア正規軍に対し、フランスを中心としたNATO軍は、国連決議に基づきリビアへの空爆を開始。まさにリビアに戦争を仕掛けたということです。同時に反カダフィ勢力には武器を大量に供与しました。

 

 結局カダフィは殺され虐殺は止み、とりあえずにしろ平和が戻りました。

  

 コソボ紛争・ボスニア紛争でも同様でした。

旧ユーゴスラビアはチトー大統領の元、旧ソ連に先駆けてオリンピックを開催するなど社会主義圏の中でも際立った繁栄と成功を収めていましたが、東西の壁崩壊に合わせてユーゴスラビア共産党政権も崩壊。国内は多民族入り乱れての内戦へと突入しました。内戦は昨日までの隣人同志が殺しあうなど凄惨を極め、国連を始めとする国際社会は再三に渡り“話し合い”による停戦に向けての会議を提案。各勢力に参加を呼びかけますが失敗。

ついにNATO軍は国連決議にもとづきセルビアへの空爆を敢行。つまりNATO軍が戦争を仕掛けたということです。

この結果和平会議が実現。紛争は収まり、市民は日常生活を取り戻しました。

  

 あ、目を覚ましましたか。9条平和主義の皆さんとしてはこうした事態をどう思いますか。国連決議やNATOは間違っていたんですか。日本国のように戦争もしない、何もしないのが良かったと思いますか。聞く耳持たず虐殺を続ける相手に対してそれでも“話し合え-”と叫び続けることで問題が解決するのでしょうか。まあ他国のことなど所詮他人事。“戦争をしない”ってことが最大の目的であるのならそれが正解なのでしょうが。


   “正義の戦争”はある。

   が、日本が直ちにこれに参加すべきではない、と私は思う。


こうした現実世界を直視すれば9条平和主義が絶対的真理として掲げる

“正義の戦争などない”という主張など、何の意味も持たないというべきでしょう。

 

ただ、ここでNATO によるリビアやセルビアへの空爆を“正義の戦争”として取り上げたからといって、日本も憲法改正したとしても直ちにこうした空爆に参加すべきだとは私は思っていません。

NATO加盟国等いわゆる西側民主国家の国民の間では“正義の戦争”などあるのは当然であって、これに命がけで参加する軍人は当然国民の理解と尊敬が得られます。(もちろん個々の軍事行動が果たして“正義の戦争”であるかの判断は別れるにしろ)

一方、日本の現状を見れば今だ“正義の戦争などない”と考える人々が一定の勢力を保持しています。そうした中、政権と“論理的にモノを考えられる人”の判断・承認だけで“他国での武力行使”など敢行すれば自衛隊員を“人殺し”呼ばわりする“大運動”が起こるのは必至です。

正義のため、命を掛けて戦っているのに、国民の理解と尊敬を得られない軍人ほど悲惨な存在はないと思います。そういう意味で、たとえ9条改正がなされたとしても、一定数の国民の理解が得られるようになるまでは自衛隊は国外の大規模な武力行使には参加すべきではない、と言うのが私の考えです。当然日本国と自衛隊は後方支援ということになりますが、この場合、最前線で戦う他国軍・軍人へは最大の感謝と尊敬の念を払うべきでしょう。






 

【変な主張4】
憲法には“自衛のための武力行使”も認めてはならない。なぜなら、すべての戦争は“自衛”の名のもとに始められるからだ。

【答え】

確かに歴史上多くの戦争は“自衛”の名のもとに始められました。そしてそのうちのいくつかは戦争を仕掛けた側のデッチアゲであったことも事実です。しかしだからといって全ての自衛行為を禁ずるという話にはならないでしょう。個人の犯罪にしても、正当防衛を偽装した殺人事件がいくつかあったからといって、法律上の“正当防衛”の概念を外すべきだということにはならない。これは個々の案件について証拠を積み上げて事実を認定するしかないわけです。 

 


 

開戦における“自衛の名のもと”についても同様です。個々の事案について国際社会やジャーナリズムが証拠を積み上げて事実を検証するしか無い。このようにしてトンキン湾事件もイラク開戦における大量破壊兵器のデッチアゲも認定されてきました。時間はかかるがこれ以外の方法で“正義”を担保し証明する方法を人類はまだ見つけていません。また戦後何十年たっても未だ“開戦の真実”について双方の言い分が食い違う事案も存在します。しかしこれは人類が神の目を持たない以上、しかたのないことなのです。

 

 護憲派の皆さんの言う“すべての戦争は自衛の名のもとに始められる”論のもう一つの問題点。それはこの論の対象が彼らにとってはあくまで日本だけであって、他国、特に隣国が“自衛の名のもとに”日本に戦争を仕掛けることなど全く想定していないということです。他の項でも述べている“9条の定理”に基づき、9条さん達にとって戦争とは“世界の中で日本だけが悪いことをする”という前提の上に成り立っていますから。  


 

 

 日本が戦争を仕掛けられるという前提がない以上、9条さんたちにとって、戦争とは日本だけが起こすものであり、日本が“自衛のために戦う”などというのは嘘っぱちに決まっているのだから認めてはならない、という理屈ですね。

 




【お答えします】

 そもそも自衛隊の前身・警察予備隊が創設された時点でハドメなんか壊れていたはずなのです。
 
ハドメ論者はかつてこう主張しました。“たしかに自衛隊は憲法違反だが、まだ九条というハドメがあるから海外には行けないのだ”。
 PKO法案に大反対した後、自衛隊が
海外に行けば、“海外には行ったが九条のハドメがあるから国連活動しかできない”と言う。 次に国連決議もなくアメリカに追従してイラクに行けば、“九条というハドメがあるからイラクに行っても水汲みしかしていない”と言う。インド洋まで行って給油しても“軍事目的にはこの油は使っていないハズだ”で済んでしまう。
 今後“駆けつけ警護”にしろ“集団的自衛権”にしろ同様の経過を辿るであろう事は目に見えています。

 じゃあどういう状態になったらハドメ論者は“ハドメは効かなくなった”と認めるのだろう。

 

 ハドメといえば車でいえばサイドブレーキです。坂道で10cmたりともずり下がってはいけない。それが1mずり下がると、“このサイドブレーキのおかげで2メートルさがらずにすんだ”、2メートル下がったら、“4メートルは下がらなかった、”4メートル下がったら“6メートルは下がらなかった”、と。  


 こんなのはマトモなサイドブレーキとは誰も認めません。


  9条の条文を守るための“ハドメ理論”

 つまりハドメ理論などまったくインチキである。なぜそんなインチキがまかり通るかといえば、それは“9条を守るため。”です。正確に言えば“9条の条文を守るため”。つまり今や“9条を守る”とは、“9条の理念を現実世界で実現すること”では全くなく“法律の条文として、文字として、六法全書から消させないこと”これが“九条を守ること”になってしまった。  


 これでよいのか。

 
   いわゆる右と左が共同作業で解釈改憲を行ってきた
 

一方で、軍事力保持派というか、保守派と言うか、いわゆる右派は政権与党として解釈改憲によって、軍事力は整備しつつ9条の条文には手を付けずに、いわば“ダンコ9条を守って”きました。そして先述したように護憲派は現実に何が起ころうとも、また陸海空軍が整備され、これが着実に活用され、解釈改憲が何回も繰り返されようとも“ハドメ論”によりこれを追認し9条の条文を守ることに力を注いできました。

 

 何のことはない、戦後日本の9条をめぐる論争・政争とは一見ツノ突きあわせて争っているようでいて、実はいわゆる右と左が手を取り合って“9条の条文”を守ってきた歴史の積み重ねだったという事です。両者ともその中身なんか放ったらかしにして、です。


 つまり“ハドメ論”とは解釈改憲と同様、ただ9条の条文を守るためだけの便宜理論、自らと世間を偽るための“言い訳理論”に過ぎないという事です。



このような9条の状態は“ハドメをかけている”と言うより

“タガが外れている”というのです。