『海山太郎関のこと』



亡き父は仕事柄、佐賀にまつわる各界の著名人との交流があった。そして生前にその交遊録を日記にしたためていた。父は昭和三年に藤津郡太良町に生まれ多良小学校に通ったがその時の同級生に、のちの大相撲二所ノ関部屋の関取、海山太郎(大天龍)氏と佐賀新聞社の主筆•論説委員長で直木賞候補にもなられた河村健太郎氏がおられた。戦前、地方の小さな小学校に同時期、後年文武両道の逸材が同席していたとは愉快な話しである。



さて海山太郎氏のことを父はこう書いている。「有明海に沿う佐賀県の片田舎、背丈も高い彼はけんかも強かったが決してクラス一番というわけでなく、勉強もよくできて何より好男児であった•••中略」。「昭和二十三年春、玉錦のあとを嗣いだ元大関佐賀ノ花のもとに入門、順調確実に番附をあげ三年後十両、すぐに入幕を果たして長身美男の有望力士とみなされつつあった•••後略」。

海山関といえば角界でも有数の酒豪としてその名を残すが後日、父は福岡で再会した際に
「一升瓶の冷酒をどんぶりにそそいでぐいぐい飲み、たちまち空にした•••」と記していた。海山関、ご存命であれば今年九十五歳になられる。父も河村氏もすでにかくりよへ渡られている。

※【写真は昭和三十年秋に福岡市へ巡業に訪れた際の海山関(右)と父】