向田邦子『ゆでたまご』


小学校4年の時、クラスに片足の悪い子がいました。名前をIといいました。 Iは足だけでなく片目も不自由でした。背もとびぬけて低く、勉強もビリでした。 ゆとりのない暮らし向きとみえて、襟があかでピカピカ光った、 お下がりらしい背丈の合わないセーラー服を着ていました。 性格もひねくれていて、かわいそうだとは思いながら、 担任の先生も私たちも、ついIを疎んじていたところがありました。 たしか秋の遠足だったと思います。 リュックサックと水筒を背負い、朝早く校庭に集まったのですが、 級長をしていた私のそばに、Iの母親がきました。 子供のように背が低く手ぬぐいで髪をくるんでいました。 かっぽう着の下から大きな風呂敷包み出すと、 「これみんなで」 と小声で繰り返しながら、私に押しつけるのです。 古新聞に包んだ中身は、大量のゆでたまごでした。 ポカポカとあたたかい持ち重りのする風呂敷包みを持って遠足にゆくきまりの悪さを考えて、 私は一瞬ひるみましたが、頭を下げているIの母親の姿にいやとは言えませんでした。 歩き出した列の先頭に、大きく肩を波打たせて必死についてゆくIの姿がありました。 Iの母親は、校門のところで見送る父兄たちから、一人離れて見送っていました。 私は愛という字を見ていると、なぜかこの時のねずみ色の汚れた風呂敷と ポカポカとあたたかいゆでたまごのぬく味、 いつまでも見送っていた母親の姿を思い出してしまうのです。 Iにはもうひとつ思いでがあります。運動会の時でした。 Iは徒競走に出てもいつもとびきりのビリでした。 その時も、もうほかの子供たちがゴールに入っているのに、一人だけ残って走っていました。 走るというより、片足をひきづってよろけているといったほうが適切かもしれません。 Iが走るのをやめようとした時、女の先生が飛び出しました。 名前は忘れてしまいましたが、かなりの年輩の先生でした。 叱言の多い気むずかしい先生で、 担任でもないのに掃除の仕方が悪いと文句を言ったりするので、 学校で一番人気のない先生でした。 その先生が、Iと一緒に走りだしたのです。 先生はゆっくりと走って一緒にゴールに入り、 Iを抱きかかえるようにして校長先生のいる天幕に進みました。 ゴールに入った生徒は、ここで校長先生から鉛筆を1本もらうのです。 校長先生は立ち上がると、体をかがめてIに鉛筆を手渡しました。 愛という字の連想には、この光景も浮かんできます。 今から四十年もまえのことです。 テレビも週刊誌もなく、子供は「愛」という抽象的な単語には無縁の時代でした。 私にとって愛は、ぬくもりです。 小さな勇気であり、やむにやまれぬ自然の衝動です。 「神は細部にやどりたもう」ということばがあると聞きましたが、 私にとっての愛のイメージは、このとおり、「小さな部分」なのです。 ( 向田邦子著「男どき女どき」より )


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今朝の産経抄に感謝(*^^*)


朝から感動して、
涙が出て来たので(T_T)