震災による上映中止のため見逃していたクリント・イーストウッド監督作『ヒア アフター』を飯田橋ギンレイホールで鑑賞。まさかこんなに早く劇場に戻ってくるとは思っていなかったので、不意打ちのごとく劇場に駆け込んだ。そして、涙が溢れ出た。公開当時、評判が芳しくなかったように記憶しているが、一体どう評価されたのだろうか? もちろん、上映中止の原因となったとされる冒頭のスマトラ沖地震を彷彿させる津波のシーンは凄まじく、体の震えが止まらなかったし、暗闇の中ですすり泣きも聞こえた――まだ5分と立たないというのに。しかし、そういったことを抜きにしても(というのは無理な話ではあるが)僕にとって最近のイーストウッド作品の中で最も好きな作品かもしれない。

東南アジアで津波に遭い九死に一生を得たパリのジャーナリスト•マリー(セシル・ドゥ・フランス)、サンフランシスコの元霊能者•ジョージ(マット・テイモン)、突然の事故によって双子の兄を失ったロンドンのマーカス(ジョージ&フランキー・マクラレン)。マリーは、津波の中で生死をさまよいながら、不思議なビジョンに出会い、その経験を“ヒアアフター(来世)”という本にすることを決意する。一方、マーカスは兄と話をするため、霊媒師を探し続け、ジョージのサイトを見つける……。

何よりも、パリ、サンフランシスコ、ロンドンで生きる3人が、いかに導かれ、出会いを果たすか。ここにすべてが詰まっている。恥ずかしいことに、僕は最初、死者が生きる不思議なビジョンが超常的に3人を結びつけると勘違いした(それこそスピリチュアルに!)。しかしまさか、こんな映画的な一瞬が用意されているとは! 『ブロンコ・ビリー』(1980)や『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)のような絶妙な邂逅が……。

『ミスティック・リバー』(2003)以降、イーストウッドは、“行方不明=喪失”というモチーフを繰り返し描いているようだ。そこには多くの行方不明者を生んだ9・11の影響があるのかもしれないし、ただ単にたまたま脚本がそうだっただけかもしれない(しかしだとしても、その物語を選択したのは事実だ)。たとえば、『ミスティック・リバー』の幼いデイブと、ジミーの娘ケイティ、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)の父親と疎遠になったフランキーの娘ケイティ(行方不明ではないがその存在は明らかにならない)、『父親たちの星条旗』(2006)のジョン・ブラッドリーの親友イギー、『硫黄島からの手紙』(2006)の手紙の主たち。『チェンジリング』(2008)は主題そのものだし、『J・エドガー』(2011)でも行方不明の事件が描かれていたはずだ。今回『ヒア アフター』を見て、むしろ、行方不明(者)=喪失を“忘れられない人々”の方こそ、イーストウッド作品の真の主題ではないかと思った。

小津安二郎が『東京物語』(1953)で描いたように、死(=喪失)を忘れられる人の方が資本主義社会ではスタンダードだ。だから、唯一夫の死を忘れられなかった紀子(原節子)は、終盤、母の死に対しての家族の反応の冷たさを訴える京子(香川京子)を「そういうものなのよ」と諭し、「死を忘れられなければ生きていけない社会の矛盾」を教えたのではなかったか。そして、死は忘れられない、忘れてはいけない……と、寡黙に映画を作り続けた小津安二郎と同じように、イーストウッドも“忘れられぬ人々”へ厳しくも救いの手を差し伸べる。“忘れられない人々”は、ひとりでは生きていけない。忘却できないが故に、世界からこぼれ落ち、孤独の闇に堕ちてしまうからだ。彼らが前に進むためには、真の忘却を知る〈他者〉との出会いしかないだろう。

 

『ヒア アフター』でもっとも感動的だったのは、ジョージにマリーと会う決心をさせたのが、マーカスの「あの女の人のこと好きなんでしょ?」というひと言だったことだ。死者の言葉を媒介する崇高なる霊能者は、少年の直感的な言葉によって、自分のヒアアフター(これから先)に気付かされるのだから。もちろん、うまくいくかは分からない。でも大丈夫だ。マット・デイモンの背中は過去でも遠い未来でもなく「今これから」に向かっていたから――。(ひ)

 

『ヒア アフター』