2023年 2月の鉄道カレンダー | レールは、こころをつなぐ道。

梅小路公園の京都電気鉄道後期型車両と京都タワー

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1895(明治28)年2月1日は日本最初の電気鉄道 京都電気鉄道(高木文平社長)伏見線が下油掛(伏見京橋)~七条停車場踏切南(京都駅)間に開業した日。

京都電気鉄道 伏見線 
下油掛(伏見京橋)~七条停車場踏切南(京都駅) 6.7km

所要時間約40分 時速約10km 
車体全長 約6m 定員 28人 

 

我国最初の電気鉄道なので、馬車鉄道の馬がモーターに変わっただけか?…違うのか?、電車の評価・認識も無く、どこが監督省庁かも決まらなく、認可を渋られた京都電気鉄道は「営業期間を30年とし、期限満了になれば何時でも電車を取り除きます。」との条件で建設を始めたのでした。

 

誰も電車を見たこともない状態から走り出した京電は、泥縄式の法整備による規制で安全環境整備を強いられた。

開業から半年ほど経ってから前後の救助網と電車が来るのを知らせる電車告知人(先走り)の少年を設ける規則が定められた。

 

告知人も居らず、前後の救助網も無い時の写真↓

京都府立京都学・歴彩館『京の記憶アーカイブ』より

 

夜間は常時先走りが義務付けられていたが、昼間は市街地などの危険な区間で電車から飛び降りて数メートル前を、昼は赤旗を、夜は提灯を持って先走りをしていた。

電車は時速10km程度で走り、飛び降り、飛び乗りをしていたため失敗してケガをする者や電車に轢かれる者も有った。

 

運転台向かって右に先走りの少年が左手に旗を持っている

京都府立京都学・歴彩館『京の記憶アーカイブ』より

 

 

結果的に京電だけとなった電車告知人制度は、世間からの非難も多く京電も早くから廃止を申請していたが、開業3年後の1998(明治31)年に夜間の、更にそれから6年後の1904(明治37)年にようやく昼間の廃止許可が下り9年間の歴史を終えた。

「電車が来まっせ~」は「電車が来ますよ~」の意味で誰でもお分かりでしょうが、「あぶのせぇ~」「あぶのおっせぇ~」は「危のおすえ~」の短縮形で「危ないですよ~」の意味。

 

 

 

その17年後の1912(明治45)年に開業した日本で3番目の市電 京都市電は都市整備と連携できる市営の強みで、京電とのし烈な競争を優位に展開し、1918(大正7)年7月1日に京都電気鉄道を買収し、ここに「期限満了の30年」を待たずに「23年で京都電気鉄道は我国電気鉄道のパイオニアとして名を残すのみ」となった。

 

 

しかしながら京都市電となった北野線は狭軌のまま、前面窓の設置など改造されN電と呼ばれるようになったとはいえ京都電気鉄道後期型が最後まで走り、伏見線・稲荷線は広軌に改軌されても最後までそのルートは踏襲された。

 

二条城前の狭軌1形(京都電気鉄道後期型改造) 


福田静二氏提供