続・勝者の論理・・・ | レールは、こころをつなぐ道。

前回掲載した記事は…

電車の屋根に有る集電用トロリーポールの話。

 

京都電気鉄道で日本最初の電車が走り始めた時、架線は1本で電気はレールに流す方式だったがガス管・水道管や通信等への影響が有るという事で、その直後2本の架線で通電するように定められ、京電も対応したはずだが「京都市営電気事業沿革誌」には「京電を買収してから改造した」と記載されていて、今回保存されていた市電関係資料を調査した京都市電関係資料調査会に尋ねたところ、やはり「市電買収後に改修した」との事だった。

そこで、1978(昭和53)年発行「さよなら京都市電」には買収前の「大正初期」と書かれた京電2本ポールの写真が掲載されているので再調査をお願いしたのでした。

 

京都市電関係資料公開中!

 

 

 

改めて京都電気鉄道について

新幹線へと続く「電気鉄道のルーツ京都電気鉄道」

1895(明治28)年に京都の実業家高木文平が日本最初の電気鉄道となる京都電気鉄道(私鉄)を開業しました。

なにしろ、日本で初めての電気で走る鉄道のため関連する法制度など有るはずもなく、馬車鉄道の馬が電気に代わっただけの軌道?、鉄道?、便利なのか?、安全なのか?、どの様な乗り物か?、などの認識も評価もまだ無く、よく分からないので認可を渋られた京都電気鉄道は「営業期間を30年とし、期限満了になれば何時でも電車を取り除きます。」との条件で建設を始めたのでした。

 

この京都電気鉄道(狭軌)が築いてきた路面電車の好評価や、将来性、必要性に気づいた京都市が都市開発と並行して市営電車(広軌)を開業したのは17年後の1912(明治45)年でした。

 

その後、し烈な両社の競争の結果6年後の1918(大正7)年に京都電気鉄道は期限の30年を迎える事もなく、23年で京都市電に買収されパイオニアとしてその名を残すのみとなりました。

 

日本で3番目の市電として開業した京都市電は、前身の京都電気鉄道を含めて日本最初の市電とも呼ばれています。

 

電気鉄道の先駆者となった京都電気鉄道では、結局日本唯一となった電車告知人(先走り)の配置や、救助網や信号の設置、そして架空複線化など、法整備などが後追い状態で制定される苦労と努力の連続でした。

 

 

 

そして今回京都市電関係資料調査会から「(京電研究のオーソリティー:故人)大西友三郎氏の1974(昭和49)年の毎日新聞17回連載「チンチン電車物語」の第5回に下記の記述が有り、内容に間違いはないでしょう。」との返答をいただきました。

 ↑画像最下段左側(赤枠)の項目を拡大↓

 

記事には、こう書かれています。

 

架線は単線式を押し通す
技術的な問題としては架線をつけるのに単線式にしては電話線に影響して通信障害を起こす恐れがあることや、また軌道敷設が地中に埋設してある水道管、ガス管への影響が問題になった。

架線は単線式にすると電話に影響するというが、複線式にすれば費用がかさむ。

郵政省・電電公社の前身である逓信省が通話への影響について調査したが、意見が分かれ、結局電気事業取締規則で多くの制限をつけたうえで単線式を採用してもよいということになった。

しかし、内務省(自治省の前身)は京電が走り始めた後の明治二十八年七月二十二日、市内線に関しては架空単線式は許可しない、という決定をしている。

こうした事情から単線架空式の電車は全国でも京都電鉄と、手続き的に内務省の決定がきまらない前に許可を取り、明治三十一年開通した名古屋電鉄だけということになった。

京都電鉄は明治四十年になって複線式に変更しているが、名古屋電鉄はその後、市電に合併し、今年(1974年)三月廃線になるまで単線式で押し通した。

※実はこの連載記事は以前に読んでいたのですが、この項目は失念していて調査会からの返答で思い出したのでした(涙)

 

 

それは京都市電が開業する5年ほど前という事になります。

よって、買収15年後の1933(昭和8)年京都市電気局編の『京都市営電気事業沿革誌」の記述は「勝者の論理」で後に書かれた物で、日本最初の電気鉄道京都電気鉄道は1907(明治40)年頃には架空複線式化に着手していた!のでした。

但し買収時にどの程度まで架空複線化されたのかは不明です。

 

 

 

なお、その後技術改良が進みレールに電気を流しても問題ないとの事で、京都市電の架空複線式は太平洋戦争の物資不足の頃から順次架空単線式に変更されています。