この前いただいたお手紙で(と言っても、もう5か月以上も前のことになってしまいます。いつもとんでもなく返信が遅くなってほんとうに申し訳ありません。ごめんなさい)、「はじまり一座」の『水はみどろの宮』の歌い語り公演を2016年9月に熊本で行うことを前にして、「ちょっと無理、絶対無理、と瞬間的に決定的にそう感じていました」と、姜さんは書かれていました。『水はみどろの宮』は石牟礼道子さんが1997年に発表された、阿蘇が火を噴き、熊本の大地が揺さぶられる物語で、それをもとにして「はじまり一座」の歌い語り公演の台本を姜さんが2016年3月に書き上げられたところ、その翌月の4月14日から16日に熊本県の益城町や西原村など阿蘇地方で最大震度7を観測する大地震が起こってしまったのです。甚大な被害が出た被災地の熊本で、熊本の大地が揺さぶられる物語を上演するなんて絶対無理と、姜さんが瞬間的に、決定的に感じられてしまったことはとてもよくわかります。ぼくはそのお手紙を読んで、2011年3月の東日本大震災のあとに自分が襲われた複雑な思いのことをすぐに思い出しました。
『水はみどろの宮』を9月に熊本で上演するのは絶対に無理だと思った感覚は、東日本大震災の経験から生まれてくるものだったとも姜さんはお手紙で書かれていました。そして東日本大震災から3か月後、姜さんがボランティアで東北に初めて足を踏み入れられた時のことに触れられた次の文章が、ぼくの胸に強く突き刺さりました。
「震災後あんなに被災地には応援の歌が押し寄せ、さまざまな物語がメディアをとおして発信されていたのに、『あれは違う、違う、違う、あれは私たちの歌ではない、私たちの物語ではない』というひそかな声を耳にするようになりました。『お願いだから、入れかわり立ちかわりここにやってきてはあの日のことを尋ねないで、あの日のことを思い出させないで』。そんな痛切な声も聴くようになりました。ここに沈黙がある、語られない、歌われることもない空白がある、安易に触れてはならない痛みがあるのだと、私はただひたすらにぎざぎざと心に刻みつけました」
2011年3月11日の東日本大震災の直後、ぼくは12日、13日、18日と東京のさまざまな場所で歌う予定が入っていました。でもそれらはすべて中止か延期となりました。大地震直後、恐ろしい被害の状況が次から次へと伝わってきて、地震と津波によって引き起こされた東京電力の福島第一原子力発電所の重大な事故も、真相はもちろんのこと、今後いったいどうなるのかまったくわからないという緊急事態のまっただ中、まずはぼく自身、気持ちは動揺しているし、不安の塊になっていると、ライブをやったり、歌を歌ったりする気にはまったくなれませんでした。
東日本大震災の直後、まわりではまったく正反対のふたつの意見がぶつかり合っていました。ひとつは「こんな時にコンサートやライブをやるなんて不謹慎だ」「今は自粛すべき時だ」というもの、そしてもうひとつは「こんな時だからこそ音楽が必要とされている」「今こそ歌うべき時だ」というものでした。大きなコンサートやイベントに対して、そうしたふたつの意見がぶつけられたのはもちろんですし、ぼくがいつもやっているような、ほんとうに少ない数の聴衆を前にしての小さいライブに対しても、「やめるべきだ」「やるべきだ」という両方の声が届けられていました。そして大震災後しばらくの間、今は音楽を楽しむ時ではない、自粛すべきだという意見の方が優勢だったようにぼくは記憶しています。
これはもちろん歌や音楽だけにかぎったことではないのですが、人はそれぞれ異なる思いを抱き、異なる考えで、創作活動や表現活動を行っています。それを受け止める人たちの思いや考えもさまざまです。つらく厳しい現実をいっとき忘れ、楽しい思いをするために歌があると考える人もいれば、逆につらく厳しい現実から目をそらさず、それに立ち向かって行くために歌があると考える人もいるでしょう。こんな時だからこそじっとしていられなくて、いつも以上にあちこちで自分の歌を歌いたいと考える人もいれば、今は自分の歌の出る幕ではないと考えてしまう人がいてもおかしくありません。
何かとんでもないことが起こっても、表現活動にただちに規制が敷かれたり、ルールが決められたりして、みんながそれに従ったり、一斉に右に倣えしたりするのはとても恐ろしいことのようにぼくは思います。人はそれぞれなのだから、歌いたい人は歌えばいいし、歌いたくない人、歌えない人は歌わなくていい。音楽を楽しみたいと思う人は楽しめばいいし、音楽など楽しむ気にはなれないと思う人はしばらく遠ざかればいい。それぞれの人がそれぞれの立場で自分の答えを出し、自分の納得のいくかたち、自分がいいと思うやり方で動けばいいだけなのです。
東日本大震災から数週間すると、またいろんな場所でいつものようにライブやコンサートが行われるようになり始めました。ぼくも以前と同じように、週に2、3回のペースでライブをするようになりました。しかしその多くは被災地に義援金を送るチャリティ・ライブでした。ほんとうにほんとうに微力かもしれませんが、自分が歌うことが被災された人たちの助けになるのならと、そうしたチャリティ・ライブにぼくは積極的に駆けつけました。ぼくのまわりにはただちに被災地に駆けつけてボランティア活動をする人たちもいて、ぼくは彼や彼女たちに素直に敬意を払う一方、それができない自分自身にもどかしさや情けなさを感じていました。
すぐにも自分が住んでいる場所でチャリティ・ライブをするだけでは不十分だと、被災地に駆けつけて、避難場所の学校の体育館などで演奏活動を行うミュージシャンたちが出てきました。テレビなどに出て名前がよく知られている芸能人もいれば、ぼくと同じような場所で活動をしているミュージシャンもいて、彼や彼女たちの活動がマスコミを通じて伝えられたり、ツイッターやフェイスブックといったソーシャルネットワーク、それぞれのブログなどを通じて伝わってくるようになりました。みんな被災地の人たちに受け入れられ、とても喜ばれているようでした。
しかしそうした情報を前にして、ぼくは自分もそうしたいという積極的な気持ちにはなかなかなれませんでした。ぼくのような歌い手が、ぼくが歌っているような歌が必要とされるのだろうかという不安やためらいが少なからずあったのです。というのもいち早く被災地の避難所に駆けつけた歌手たちは、テレビによく出ていて、老若男女誰もが知っている人たちで、歌われる歌はみんなのよく知っている歌、ご当地ソングの演歌や民謡や流行歌、童謡だったりしたし、いわゆる芸能人ではないミュージシャンが駆けつけたとしても、そこで歌われるのはそんなみんなのよく知っている歌が中心で、そこには被害にあったみんなを楽しませたり、元気づけたりしようという、はっきりとした大きな目的があるようにぼくには思えました。だから誰も知らないフォーク・ソングや理屈っぽいメッセージ・ソングばかり歌っているぼくのような歌い手は、みんなを楽しませたり、元気づけたり、励ましたりすることはできないし、それこそ駆けつけたとしても、「あんた誰?」「あんた何者?」と言われたりして、まったくお呼びではないに違いないと考えていたのです。
それにこれは乱暴に言ってはいけない、ひじょうに微妙なことなのですが、被災地に駆けつけて歌を歌う人たちの中には、みんなを楽しませるために、元気づけるために、励ますために、「歌いに行ってあげる」という姿勢が伝わってくる人たちもいて、それはちょっと違うんじゃないかなという違和感をぼくは感じていました。またこの時期にある有名な女性歌手が言った「わたしはシンガーだから歌うことしかできない」という発言にも、ぼくは違和感を通り越して反感のようなものを感じてしまいました。しかもその発言がとても立派なこと、素晴らしいことのように受け止められていたからなおさらです。
「シンガーだから歌うことしかできない」という言い方が、とても潔くて使命感に燃えたもののように受け取られ、絶賛されたのかもしれませんが、ぼくはむしろそこにその人の驕りや傲慢さ、そしてシンガーという「特権」や「使命」に逃げ込んでいる甘えや怠惰を感じてしまったのです。
とんでもない災害を前にして、自分がその被害に直接あわなかったとしても、誰であれ、まずは人としてやれること、やるべきことは山ほどあるはずです。そしてそれをやると同時に、その人が何か「特別」なことをしているのだとしたら、他人とは違った何かをしているのだとしたら、そしてそれを役立てることができるのだとしたら、それもすればいいだけの話だとぼくは思うのです。その人がたまたまシンガーだとしたら、そこにシンガーとしてやれる特別なことがひとつ付け加わるだけで、「シンガーだから歌うことしかできない」というのは、決してありえないし、逆にぼくは潔い決意表明というより、逃げるための口実のように感じられてしまったのです。
シンガーだとか、俳優だとか、作家だとか、詩人だとか、監督だとか、社長だとか、そういうことを別にして、ひとりの人間として自分にできることは何なのかを考え、それから自分がやっている「特別」なことで何ができるのかを考えればいいのではないでしょうか。そしてぼくはミュージシャンとしても自分にいったい何ができるのかと改めて考えた時、それはみんなを楽しませたり、元気づけたりするために被災地に駆けつけることではなく、まずは大震災や原発事故についての歌を作って、それを自分のライブで、いつものみんなの前で歌うことなのではないかと思いました。そしてそんな歌をいくつも作り始めました。
それでも東日本大震災から2か月近くが過ぎた2011年5月のはじめ、ぼくは大震災後の東北地方に初めて歌いに行くようになりました。それは福島県いわき市のライブ・ハウス「club SONIC iwaki」で行われた『いわきサイコーです‼』というイベントで、それから9月には岩手県上閉伊郡大槌町の大槌ふれあい運動公園で開催された大阪のラジオ局主催の『なにわ元気まつり』、そして10月に福島県いわき市常磐湯本の21世紀の森公園で開催された『がんばっぺ! フラ&ミュージック・フェスタ in いわき』と、震災後の東北地方に歌いに行く機会が続きました。でもいずれもたくさんのミュージシャンが出演するイベントで、与えられた短い持ち時間で自分の歌を歌うだけで、地元の人たちとゆっくり話をする時間も持てなければ、会場以外のどこにも足を延ばすことができない、それこそ被災地の会場だけを駆け足で通り過ぎるというものでした。被災地を訪れて、そこにとどまって歌うという体験とはかけ離れたものでした。2012年の夏にも、ぼくは福島や会津若松、いわきに歌いに行きましたが、やはりそれらも、残念なことに駆け足で通り過ぎるだけの旅になってしまいました。
自分が被災地に歌いに来たと初めて実感できたのは、そして被災地に歌いに行くとは、被災地で歌うとはどういうことなのかを、自分なりにしっかりと確認できたのは、2012年12月に再度岩手県の大槌町を訪れた時でした。この時は震災後にボランティアとしてすでに何度も被災地を訪れている“狂犬の詩人”末森英機さんが、ボランティア活動の拠点としている大槌町のカリタスジャパン大槌ベースに話を持ちかけてくれ、ぼくはシンガー・ソングライター仲間のよしだよしこさんと一緒に大槌町に向かい、大槌町の仮設団地集会所、そして地震と津波で町の中心部が壊滅状態になった大槌で奇跡的に建物が残った喫茶「夢宇民(ムーミン)」で歌えることになりました。
大槌町に着いた翌日、大槌町小鎚第8仮設団地の集会所で朝10時から始まった「くりすますおちゃっこの集まり」は、音楽を楽しむことより、集まった仮設団地の人たちがビンゴなどのゲームを楽しんだり、みんなで一緒に食事をすることが中心の集まりだったので、よしだよしこさんもぼくも数曲しか歌えず、何だかいつもの調子がでないというか、不完全燃焼のままで終わってしまいました。
しかし夕方から喫茶「夢宇民」で行われたクリスマス・ライブには、大槌町や近所の音楽好きの人たちが集まってくれ、まずは末森英機さんの歌でライブが始まり、それからよしだよしこさんとぼくがそれぞれ一時間近く歌いました。それこそよしこさんやぼくが日本中いろんな場所でいつもやっているライブとまったく同じ感じで、熱く盛り上がりました。ぼくらはいつものライブで歌っている歌を歌い、来てくれたみんなもその歌に真剣に耳を傾けてくれ、大きな声で一緒に歌い、みんなの笑顔が溢れるとても素敵な夜となりました。実は喫茶「夢宇民」は大槌町の音楽好きの溜まり場で、マスターの赤崎潤さんたちはムーミンズというロック・バンドを組んでずっと音楽活動をしていて、まさに大槌町の音楽のメッカと呼べる場所だったのです。
喫茶「夢宇民」のクリスマス・ライブに集まってくれた人たちは、誰もが2011年3月11日の東日本大震災で家族や友人、家や仕事など大切なものを失い、その悲しみや苦しみ、喪失感と日々向き合い続けている人たちばかりでした。その深い悲しみや絶望にぼくは簡単に立ち入ることなど絶対にできないし、自分の歌でその人たちを何とかしたいという特別な気持ちにはまったくなれませんでした。ぼくにできることはといえば、いつもと同じように、いつもの歌を歌うだけだったのです。そしてぼくにははかり知ることのできない悲しみや苦しみを抱え込んでいる人たちが、その夜は音楽でひとつに繋がり、一緒に歌い、溢れる笑顔を見せてくれたのでした。
喫茶「夢宇民」でのライブが、そしてそこに集まってくれたみんなの表情が、反応が、ぼくに改めて気づかせてくれました。被災地に歌いに行くからといって妙に構えたり、何か特別なことをする必要はまったくないのだと。いつも自分がやっていることをただやればいいだけなのだと。
2011年3月の東日本大震災からしばらくの時が流れ、いろんミュージシャンたちが被災地に駆けつけたり、被災地で活動しているのを見て、ぼくは落ち着かなくなったり、あせったりして、無意識のうちに思ってしまっていたようです。被災地に歌いに行くことで、ぼくは何かしてあげよう、何かを与えようと。でもそれはとんでもないことでした。喫茶「夢宇民」での素晴らしい時間がぼくが教えてくれました。励ましてあげよう、元気づけてあげようだって? 聞きに来てくれた被災地のみんなから逆にぼくのほうがいろんなものをもらっているではないか。
いただいたお手紙の中で姜さんはサン゠テグジュベリの『人間の土地』の中の言葉、不時着した飛行機の操縦士、サン゠テグジュベリの言葉を引用されていました。
「ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!」
ぼくが喫茶「夢宇民」で思ったこととこのサン゠テグジュベリの一節とを結びつけるのはあまりにも強引であることはよくわかっていますが、たすけてあげようとしている者こそが実はたすけられている、与えようとしている者こそが実は与えられているということは、絶対にあることなのです。
「ちょっと無理、絶対無理、と瞬間的に決定的に」感じられた姜さんでしたが、2016年9月熊本での「はじまり一座」の『水はみどろの宮』の歌い語り公演は、もちろん中止されることはありませんでした。橙書店で行われた公演はあらゆる意味で大成功だったと思います。
「ええーい! よか水の道の通ったぞ!」というごんの守の声とともに、その場に水がじゅんじゅんとめぐりはじめたようでした。その場にいた誰もが千年のまつりと祈りの主人公になったようでした。ひとりひとりの心の裡に、遥かな見知らぬ命たちへの祈りが宿ったようでもありました。誰かのために祈る、そんな場を、この世のどこよりも熊本こそが必要としているようでした。
熊本の中でもいちばん甚大な被害を受けた益城町出身の知人の、「『水』のあの再生と祈りの場を共にしたあの夜、震災以来はじめてぐっすりと眠れた」という言葉を聞いた時、ようやく私は『水』を歌い語ることの意味を知ったようにも思いました。
姜さんのお手紙のこの言葉をぼくは何度も何度も読み返しています。歌い語ることでそこにいるひとりひとりの心の裡に祈りが宿り、それが再生へと繋がる。何かをしてあげよう、何かを届けようというのではなく、共に祈り、祈りを共有すること。遭難者が救援者となり、救援者がその祈りに救われる。
「祈る者は、誰かの見知らぬ祈りによって救われている自分を知る者」
人前で歌い始めて今年で50年になるぼくですが、まるで今日初めて人前で歌った者のように、歌うことの重さと深さ、恐ろしさと楽しさ、そして素晴らしさに改めて気づかされています。
2017年2月16日
中川五郎