五郎さん、こんにちは。私は歌い踊りはしないんですよ、今はまだ。ふっふっふっ。今度、この往復書簡の仕掛け人の末森英機さん(またの名を狂犬ヒデキ)と「犬のまつり」というのをやることになっているんですけど、そのときには私も妄犬となって狂犬と一緒に歌うかもしれません。ええ、猛犬ではなく、妄犬です、妄りに想う犬ですよ。

 

さてさて、こないだお便りを差しあげたと思ったら、なんだかあっという間の三か月半。私もこの間、あちらこちらひどく動き回っていて、(実は子どもの頃から落ち着きがない、典型的な多動児と言われています)、動くほどにいろいろなことがあって、五郎さんへの言葉を温めるには、少なくとも、これくらいの時間が私にも必要でした。おそらく第一信には旅立ちに高揚する気持ちが溢れていたとすれば、この第二信は旅の後の内省の言葉が多くなることでしょう。
思うに、言葉はじっと見守ってあげなくては、ですね。われらの身の内から生まれでた言葉が、時には心ない声が渦を巻く険しいこの世をたったひとり旅をして、強く優しく豊かに生き抜いてゆくには、大切に大切に育んでそっと送り出してやらねば、ですね。

 

五郎さんからのお便りを受け取った九月八日、私は熊本にいました。六月以来、二度目の熊本です。そして、二日後の九月十日に、熊本で初めて『水はみどろの宮』歌い語りをすることとなっていました。実を言えば、これは私にとって、まことに恐ろしいことでした。それは、五月にポレポレ坐で山福朱実さん、末森樹君、祭文語り八太夫師匠と四人で、「はじまり一座」として歌い語りをしている時にも胸底にひそかに秘めていた思いでもありました。
何が空恐ろしいのかと言えば、このことは前便でも書いたように思いますが、まずは、石牟礼さんが二十年あまり前に、二〇一六年四月の熊本地震を幻視していたかのような光景を『水[はみどろの宮]』の中にありありと語っているということ。私が石牟礼さんの『水』原作から書き起こした歌い語りの台本もまた、地震とそこからの再生を中心に据えている。でも、これは熊本で実際に地震が起きる直前の三月に書いた台本で、本当に地震が起きてしまった時、「はじまり一座」の面々は心底凍りついた。このとき既に九月十日に熊本で『水』を歌い語ることもほぼ決まっていたのですが、ちょっと無理、絶対無理、と私は瞬間的に決定的にそう感じていました。熊本以外の土地ならば、熊本への祈りを込めて上演できる、むしろどんどん上演したい、でも熊本では無理、それはあまりに恐ろしいことだと。
この感覚は私自身の東日本大震災の経験から生まれくるものでした。

 

東日本大震災のあの瞬間、私は戦前からのコリアン集住地である東京の三河島の路上にいました。だんだんと激しく大きく揺さぶられていく数分の間に、私は、関東大震災直後に東京の下町の路上で繰り広げられたであろう朝鮮人虐殺の光景をありありと想い起こしていました。それはもう反射的に。さらには、朝鮮人に向けたヘイトの声に取り囲まれて呆然と立ち尽くすもうひとりの私の姿を、一瞬のうちにリアルに目の前の路上に見たようにも思ったのでした。その光景は五郎さんが歌い語るバラッド「トーキング烏山神社の椎の木ブルース」、そして「1923年福田村の虐殺」で歌い語るあの光景へと連なってゆくものです。ええ、この二つのバラッドは、五郎さんの生の声で私はしかと聴いています(あと一つ、五郎さんの「関東大震災と朝鮮人差別、朝鮮人虐殺に関するバラッド三部作」のうちの「真新しい名刺」、これもいつかきっと聴きたい!)。
二〇一一年三月十一日、東京の路上で凍りついた私の心は、やがて東北へ東北へと彷徨いだしていきます。関東大震災のとき、東京やその近郊の町や村の路上で殺されたのは、五郎さんも歌い語っているとおり、朝鮮人だけではない。いわゆる標準語を話さない人々、いわゆる標準の日本人とは思われぬ人々もまた、恐怖に駆られた“標準的な人々”に不審の目を向けられ、襲われています。福田村で虐殺されたのは四国・香川からの行商人の一行でしたね。あのとき東京では、沖縄出身の人びとも言葉がおかしいと命の危険にさらされた。その後、沖縄では、「関東大震災のときの朝鮮人のように殺されぬよう、標準語を勉強しましょう」と、文字どおり命がけの標準語教育が学校で繰り広げられるようになります。
そして東北。東北の訛りもまた、震災時には命に関わるものでした。さらにさかのぼれば、一八九六年に東北を襲った地震と津波のおりに、東北に救援に入った赤十字社の者のコメントを東京のある新聞が伝えることには、言葉の通じないこと、人々の貧しいさま不潔なさまは、まるで朝鮮のようだと。その当時、日本の中央に身や心を置く人々の目には、東北と朝鮮はひとつらなりに見えていたのです。
その東北から、東日本大震災の直後からじわじわと、こんな声が漏れでてきた。
「東北はずっと日本の植民地だったんだなぁ」
明治維新以降、白河以北一山百文と揶揄され、天災に苦しみ、飢えと闘い、安い労働力を中央に送りつづけ、女も兵隊も送りだし、米を送りだし、資源を送りだし、中央の動力源となり、中央には置けない危ないものを引き受け……。
朝鮮や台湾や満州は歴史上も地理上も実に分かりやすい日本の植民地でした。そのうえさらに、あからさまに植民地とは呼ばれないけれども、そう呼ばれないだけに、むしろずっと植民地支配からの解放がなされないままの場所がある、ずっと踏みつけられ続ける人々がいる、それがたとえば沖縄であり東北なのだと、東日本大震災を契機に私はあらためて深く気づかされたのです。
「近代国家とはつまり、戦争と植民地経営をしなければ維持できない国家である。近代以降、この世界は戦争と植民地なしには成立しなかったし、今もなおそれは変わらない」。そう語ったのは私の信頼する近代史研究者ですが、なるほど、それもまた腑に落ちます。
敵なしには、誰かを排除することなしには、強い者が弱い者を踏みつけることなしには、排除される者や踏みつけられる者が言葉を奪われ沈黙のうちに押し込まれることなしには、成り立たない世界。それがいま私たちの生きている「近代」という世界なのだと、東日本大震災を境に、私はつくづくと思い知ったようなのです。
かつて、太古より、人間は、賤しい姿形をした異人[まれびと]を神として畏れ敬い迎えいれる心を持っていた。これは洋の東西を問わぬ神話的な心です。それが近代以降、見知らぬ旅人を疑い恐れ敵として打ち殺す心へとすりかえられていく。それと同時に、私たちは、異人たちが運んでいたさまざまなささやかな物語を、あるいは異人たち自身の旅の物語を失い、異人たちは沈黙のなかへと封じ込められていく。
封じ込められた異人たちの生きるほうへ。封じ込められた声のほうへ、物語のほうへ。それが私の3・11以降の確かな旅の進路となりました。この流れは、五郎さんのバラッドへと向かう心の動きと重なり合い、響き合うもののように私は感じています。
気づいてしまったならば、そこに沈黙があると、空白があると、声をあげねばならない、語らねばならない、歌わねばならない、沈黙を語り継ぐために旅に出なければならない。
ね、五郎さん、そうじゃないですか?

 

沈黙する東北へ。東日本大震災の三か月後、ようやく、それまで一度も訪れたことのなかった白河以北の地、東北へと私は足を踏み入れました。それから何度も通いました。市街地のすべてが津波で押し流された陸前高田で、泥と潮にまみれた人びとの大切なものをきれいに水で洗い流すボランティアを黙々としました。やがて親しく話すようになった陸前高田の人びとが、「あの日、私たちは言葉を失くしました。歌も失くしました」とそっと語っては、もうよそゆきの言葉を投げ捨てて、じっと口をつぐむ姿を目の当たりにするようになりました。震災後あんなに被災地には応援の歌が押し寄せ、さまざまな物語がメディアをとおして発信されていたのに、「あれは違う、違う、違う、あれは私たちの歌ではない、私たちの物語ではない」というひそかな声を耳にするようになりました。「お願いだから、入れかわり立ちかわりここにやってきてはあの日のことを尋ねないで、あの日のことを思い出させないで」。そんな痛切な声も聴くようになりました。ここに沈黙がある、語られない、歌われることもない空白がある、安易に触れてはならない痛みがあるのだと、私はただひたすらにぎざぎざと心に刻みつけました。

 

そして、熊本地震です。『水はみどろの宮』歌い語りです。いったい、どうして、この地震と再生の物語を熊本で演じることができましょうか? ましてや、熊本は私が二〇〇八年まで二十年近く暮らした地です。町の風景もそこに生きる人々のひとりひとりの顔もありありと思い浮かぶ。阿蘇が火を噴き、熊本の大地が揺さぶられるこの物語を熊本で語ることの意味を考え抜くことなしには、到底演じることなどできません。

 

五月二十一日、東中野のポレポレ坐にて、はじまり一座による『水』歌い語り初演の後、私と祭文語り八太夫の二人だけが、六月七日、東京から熊本に向けて車で出発しました。七日京都、十日広島、十二日北九州・門司港と、『水』を歌い語りつつ巡礼のように旅をして、そうそう、門司港の『水』には北九州出身の山福朱実さんとギター弾き末森樹君も合流しました。そうしてようやく六月十三日に熊本にたどりついた。
熊本では、石牟礼道子さんや次世代の表現者たちが拠点としている橙書店に身を寄せて、旅の報告と旅のみちみち人々から寄せられた復興支援のカンパを届けました。それから、橙書店に集まってくれた友人知人たちとゆるりと輪になってお茶をしつつ、ぽろりぽろりと震災後の日々の話を聞いた。この日は、もう最初から『水』を歌い語るつもりはありませんでした。ただ、おずおずと一曲だけ、『水』と同じ世界の言葉で書かれた私たちの旅のテーマソングを歌った。東京を発つ前に私と祭文語り八太夫の二人で作ったあの歌。御詠歌「花を奉る」です。熊本までの旅の途中、京都、広島、門司港でそうやって歌ってきたように、熊本でもチリンチリンと巡礼の鈴を鳴らして歌いました(鈴を鳴らすのは私、三味線を弾いて歌うのは八太夫です)。
長詩「花を奉る」に、石牟礼道子さんが、3・11によってますますあらわになった近代世界という名の滅びの世とそこに生きるものたちへの祈りを込めたように、私もまたご詠歌「花を奉る」に、命が揺さぶられつづけている熊本への祈りを込めました。
そう、祈ったんです。祈るほかには何もできない。集まったみんなと一緒にただ祈った。そのとき、熊本での『水』の歌い語りをためらう私の心を聞いた熊本の友人知人たちが、こう言った。「やってよ、ここで歌い語ってよ、『水はみどろの宮』を!」
こうして九月十日の『水』歌い語り@熊本・橙書店が決行(!)されることになりました。しかし、それでも私は、陸前高田の人びとのあの痛みつづける心を想い起こしては、『水』のなかのあの地震の光景を熊本で歌い語ることへの怖れを完全に拭えずにいたのです。

 

迫りつつある九月十日に向けて、迷いつつ想いをめぐらす。ああ、想い起こせば、6月の東京から熊本に到るまでの『水』歌い語りの旅では、京都、広島、門司港の各地で、さまざまな人々が『水』の舞台で祈ったのだった……。
それは最初はまるで思いつきのようでした。でも、そうでなければならないという確信があった。私は、『水』をたずさえて行く先々で、その土地の人びとに、とにかく『水』の舞台に参加してほしいとお願いしたのです。一緒に舞台を作ってほしいと。私は『水』それ自体を、祈りの場にしたがっているようでした。そのために、私はその土地土地で『水』の台本に手を加えました。ほとんどリハなし、ぶっつけ本番でした。会場に流れる空気に合わせて、その場で語る言葉を変えもしました。『水』は土地ごとに、関わる人ごとに、変容していきました。
そして、これもまた前便で書いたことですが、『水』の神話的世界では、地震に襲われ津波に襲われ水が濁り滞るばかりのこの世を浄めるために、千年狐ごんの守が、深い深い山の胎の底、この世をめぐる命の水の源で、六根清浄、六根清浄、はっしはっしと穢れと濁りをさらいつづけます、それはもう千年もつづいている。
物語の中で熊本を襲った地震の後も、ごんの守は六根清浄、六根清浄……、そしてついに、「ええーい! よか水の道の通ったぞ!」と、この世の誰にも声の届かぬ地の底で大音声をあげる。地震に襲われ滅びに瀕した生類たちの世界がよみがえる。
よみがえった世界では、千年狐が、片目の黒猫が、山の木々、山の精が、生きとし生けるすべてのものが、あらゆる命への祈りを捧げる祭りを繰り広げる。この祭りの場面、会場の壁いっぱいに山福朱実さんが描いた『水』の挿画が投影されます。その絵の中へ、物語世界の中へ、神話的時間の中へと、広島でも門司港でもその土地の人びとが入ってきてくれたのです。ある者は絵の中の黒猫とともに踊り、ある者は山の精となって歌い、ある者はごんの守の歌に合わせてバイオリンを奏で、ある者は鉦を打ち、そして皆が共に祈り、共に物語を生きる……。
ええ、そうなんです、そうだったんです、『水』の歌い語りの舞台にやってきたひとりひとりがまるで千年狐ごんの守であるかのように、この世を浄めて救う千年の祈りをひそかにはるかに捧げていた。ひとりひとりからこの世のすべての命への千年の祈りがおのずと生まれでた。
旅をする、物語を運ぶ、人々が集う物語の場を開く、声を行き交わす、歌う、踊る……、それは祈りの場を開くことであり、祈りをつないでいくことであり、旅する物語とは、すなわち旅する祈りなのだと、それゆえに旅する異人は古来神と言われたのだと、ふっとそんなことも思いました。

 

二〇一六年九月十日、熊本・橙書店。『水』を歌い語りました。「ええーい! よか水の道の通ったぞ!」というごんの守の声とともに、その場に水がじゅんじゅんとめぐりはじめたようでした。その場にいた誰もが千年のまつりと祈りの主人公になったようでした。ひとりひとりの心の裡に、遥かな見知らぬ命たちへの祈りが宿ったようでもありました。誰かのために祈る、そんな場を、この世のどこよりも熊本こそが必要としているようでした。
熊本の中でもいちばん甚大な被害を受けた益城町出身の知人の、「『水』のあの再生と祈りの場を共にしたあの夜、震災以来はじめてぐっすりと眠れた」という言葉を聞いた時、ようやく私は『水』を歌い語ることの意味を知ったようにも思いました。

 

長い手紙になってしまいました。第一信とは打ってかわって、ぐるぐると思いのめぐる手紙になってしまいました。でも、あと少しだけ、『水』をとおして気づいたことを話させてください。

話はふたたび陸前高田に飛びます。
二〇一一年六月、ボランティアで陸前高田に初めて訪れた時に聞いた忘れがたい話が一つ。
地震と津波に襲われたその日の深夜、高台から何もなくなった真っ暗闇の市街地を茫然と人びとが見つめていたのだそうです。すると、その眼差しの先に、不意に、ポッポッと光が現れた。光の数が増えていった。やがて光はまるで生きているかのように列を作って海のほうへと動いていった。それを人びとは静かに見送った……。
この話を聞いた時、私はサン゠テグジュペリが『人間の土地』に書きつけたある叫びを思い出しました。それは、飛行機乗りだったサン゠テグジュペリが実際にサハラ砂漠に不時着した時の経験を描いた一文のなかに記されていること。広大な砂漠の真ん中で、サン゠テグジュペリはわずかに残った飛行機の燃料オイルを使って救援を求める狼煙をあげる、そしてこう叫ぶのです。
「なぜぼくらの焚火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか? 我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる!……ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!」
遭難者サン゠テグジュペリは、なんと、世界の救援者として声をあげている。このサン゠テグジュペリの叫びが、津波の夜の光たちの声のようにも私には響いてきました。陸前高田の、すべてが押し流された真っ暗闇の中に灯った光こそが、この世界を救うために遥かな地でひそかに灯された光のように私には感じられたのです。
そう、もっとも遠くて、もっとも無力で、もっとも孤独な地にこそ、この世を救う祈りはある。
そしてさらに陸前高田の光に、熊本の『水』の祈りが結びついたとき、サン゠テグジュペリのあの叫びはさらに豊かにもっと痛切に胸に響きわたりました。
人は祈る、世界のために人知れず祈る、世界の生まれ変わりを祈る、千年前から、千年先まで、はじまりのために祈る、自分のためにではなく、自分以外の誰かのために、誰にも顧みられぬ遥かな場所で祈る、闇の中で祈る、無数の人びとが祈る、無数の人びとのために祈る……。
被災地熊本で経験した『水』の祈りとは、そういう祈り、被災地熊本からこの世界に贈られた千年の祈りでした。
祈る者は、誰かの見知らぬ祈りによって救われている自分を知る者でもありましょう。そのような者たちの心にこそ「よか水の道」が通るのだと、彼らこそが救援隊なのだと、そうだ、私たちこそが救援隊なのだ! と、これもまた、『水』の教え。

五郎さん、祭文語りは祈りと物語をたずさえて旅する者です。この世に水をめぐらす者です。バラッドを語って旅する五郎さんは、確実にわれら祭文語りの一味です。そして、『水』は、祈る者たちすべてに開かれた場です。五郎さんの祈りも、いつか、きっと、われらとともに、『水』とともに。

 

二〇一六年九月十日
姜信子