中川五郎さま

そうですか、五郎さんはもう50年も歌いつづけてきたのですね。その持続の力、意思、そして運命!
いままで私のなかではフォークシンガー中川五郎と同じくらい、ブコウスキーの翻訳者としての中川五郎が強く印象づけられていました。

ほとんどの人たちは死に対する用意ができていない。自分たち自身の死だろうが、誰か他人の死だろうが。死に誰もがショックを受け、恐怖を覚える。まるで不意討ちだ。何だって、そんなこと絶対にありえないよ。わたしは死を左のポケットに入れて持ち歩いている。そいつを取り出して、話しかけてみる。「やあ、ベイビー、どうしてる? いつわたしのもとにやってきてくれるのかな? ちゃんと心構えしておくからね」

ご存知、『死をポケットに入れて』の一節です。この本のことを今日ふっと思い出したのは、つい先日、3月26日に、私の歌の旅の道連れだったナミイおばあの追悼の宴を八王子のわが家で催したからなのでしょう。ナミイおばあは、2017年1月31日の朝、ひとり静かに旅立っていきました。
石垣島でナミイおばあに初めて出会ったのは、15年ほども前のことでした。ナミイは沖縄最後のお座敷芸者。お座敷を引退したあとも、宴の場で三線を手にしたなら、リクエストに応えて、いやいやリクエストがなくても、もう果てしなく三線を弾き、歌ったものでした。
なにより、宴の場で誰かが歌いだせば、どんな歌でも、初めて聞く歌でも、すぐさま三線でノリノリの心も弾む伴奏をつけて一気に盛り上げたものです。ナミイおばあのレパートリーは、明治大正昭和の流行り歌、お座敷歌、島の唄と、軽く1000曲を超えるらしい。
宴となれば、石垣島では締めは六調で、六調のびゅんびゅんと波に乗るような調子に誘われて人々が踊り出せば、さあ踊れ、そら踊れ、速弾きでガンガン踊らせつづける。それが10分でも20分でも30分でも、踊り手がそこにいる限りは。これ、ギターや三味線をやる人ならきっとわかると思いますが、ジェフ・ベック(って名前を出すあたりが古いかな。ともかくも)そのジェフ・ベック並みの速弾きで30分って、演奏者にとってはかなりの地獄ですよね、でも、これがお座敷の作法なのだと、お座敷遊びではお客様が音をあげる前に芸者が音を上げてはならぬと徹底的に叩き込まれたのだとナミイおばあは常々言っていた。
そのナミイおばあの口癖が、「アタシはヒャクハタチまで生きる」なのでした。時には、「死ぬもんか、絶対死ぬもんか!」と叫んで地団太踏むような強烈なばあさんでした。その意味では、ポケットに死を入れて持ち歩いていたブコウスキーとは一見対極のように見えるけど、実はそう大差ないのではないかと私は思っているんです。
このおばあのことは、過去に『ナミイ! 八重山のおばあの歌物語』(岩波書店)を刊行したり、映画「ナミイと唄えば」(本橋成一監督)の企画・製作に関わったりで、ずいぶんと書いたり語ったりしてきました。それでも、ナミイと縁あった人々と追悼の宴を催してみれば、まだまだ語り尽くせないことがあるようなのでした。
追悼の宴で私たちは、たとえば、ナミイおばあのお座敷で一緒に遊んだ思い出の、こんな歌を歌ったのですよ。

〈ストトン節〉

ストトンストトンと通わせて いまさらイヤとは胴欲な
いやならいやだと最初から 言えばストトンと通やせぬ
ストトンストトン

私があなたに来たときは ちょうど十八 花盛り
今さら離縁と言うならば 元の十八 しておくれ
ストトンストトン

ストトンストトンと戸を叩く 主さんが来たかと出てみれば
空吹く風に騙されて お月さんに見られて 恥ずかしや
ストトンストトン

うちのとうちゃん はげあたま となりのとうちゃんもはげあたま
はげとはげとがケンカして どちらも怪我なくよかったね
ストトンストトン 

そして、私たちはこんな話もしたのです。
「ナミイおばあったらさぁ、子供の頃から何度も死にそうになってね……」
そう、ナミイは何度も死にそうになっている。最初は9歳の時。石垣島から那覇の辻町の料亭に売られて、日々の芸のお稽古の厳しさと料亭のおかあさんの折檻に耐えきれず、波の上神社の断崖絶壁から9歳の子どもが身を投げて死のうとした、ところが、そのとき確かに「ナミイ、死ぬなよぉ」と声を聴いたというのです。断崖絶壁からナミイを押し戻す見えない大きな手を感じたというのです。
その次は、14歳の時。叔父さんが辻から買い戻してくれて、いっとき帰ってきていた石垣島の鰹節製造場で、つるりと足を滑らせて、床にガツンと頭を打って、人事不省。そのときナミイは長い長い階段をのぼっていったといいます。階段のてっぺんには南島のお祭りに登場する「ミルク(弥勒)」のようなおじいさんが立っていて、手には大きな火箸を持っていて、「来るな来るな、おまえがここに来るのはまだ早い、帰れ、帰れ」と言った、その瞬間にナミイはぱっちり目が覚めた。
しかし、おじいさんの手に大きな火箸ねェ……、いやいや、ちがうよ、それは錫杖のことだよ! 確かに火箸は錫杖に似てるわな、などと私たちは言いたい放題の追悼の宴を繰り広げる、そうやって、9歳の歳から90年近い歳月を三線を弾いて歌って生き抜いてきたひとりのかけがえのない人間を偲んでいる。120歳まで生きると言いつづけたナミイは、肺がんで、97歳で、この世を去ったのでした。
しかし、90年も歌いつづけるとは、いったいどれほど凄まじいことなんでしょう。しかも、それは、お座敷という空間の無名の三線弾き、唄者として。たとえお座敷に出なくなっても、ナミイのその振舞いは、常にお座敷で鍛え上げたそのままでした。
私はナミイと一緒の歌の旅で、いろいろなことを教えられ、いろいろなことに気づかされました。
歌う者が歌の主であるということ、
それはつまり、歌はすべての者に開かれているということ、
歌は神さまを喜ばすためにあるのだということ、
神さまは木にも草にも石にも水にもこの世に存在するすべてのものに宿るということ、
われら人間ひとりひとりの頭の上にも神さまはいるのだということ、
歌えば頭の上の神さまが喜んで踊り出すから、人間もまた喜んで踊るのだということ、
だからナミイいわく、頭の上に神を乗せている人間もまた、実は神なのだということ、
そして、どうやら、自分の好きな歌や踊りもわからない者たちは、頭の上の神を失くしてしまった厄介な者たちなのだということ。
思い返せば、私が最初にナミイおばあに出会った時の、ナミイおばあからの最初の一撃が、「あんたの頭の上の神さまはどこにいった?」なのでした。
この一言ですべてがはじまって、私はナミイおばあと島から島へ、お座敷からお座敷へ、たくさんの宴の場を共にすることになったのです。
そして、今、つくづくと思うのは、「場を開く」ということ。そこにこそ、歌の最初の秘密があるのではないかということなのです。
「場」と言い、「歌」と言えば、まことに唐突ですが、私は歌うのも聴くのも好きだけど、いわゆるメッセージソングというのがずっと苦手でした。いわゆる市民集会や、いわゆる政治的な集まりで、メッセージを込めた歌が流れるその風景、その空気感というのがなにより苦手でした。
たとえば、まず、ある一つの主義主張がある、主義主張の旗の下に人が集まる、そして誰かが作ったメッセージソングをみんなが声を合わせて歌う、えいえいえいおう!と声を合わせて気勢をあげる。そういうのが、私、まったくダメなんです。
いやいや、こうやって書くうちに、自分でもはっきりしてきました。苦手なのはメッセージソングではなく、どんなメッセージであれ、そのメッセージのもとに、人々があっという間に「ひとかたまり」になって結集して、あっという間に「ひとかたまり」の声になり、微塵の疑いもなく「ひとかたまり」の歌になるのが、いやなんですね、歌う者が歌の主のはずなのに、歌わされて自分を失くして誰かが指揮するパレードに引きずり込まれていくような感覚、それがいや。そこにあるのは歌ではない、単なる行進曲じゃないか、と。
行進曲から人間を解き放つ、そういう場としての「歌の場」を、私はずっと探していたように思います。そしてそのヒントをナミイおばあのお座敷からもらったように感じているのです。
島でナミイの唄三線が流れるお座敷に集う者たちは、たとえて言うなら、円く座を組む。歌う人、聴く人、踊る人がはなから決まっているわけでもないし、舞台と客席が分かれているのでもありません。円座に連なる誰かが歌う、みなが喜んで聴く、そのうち誰かが踊る、その歌う―聴く―踊る―また歌う―聴く―踊るという、次第次第に盛り上がってゆく円い連鎖が場を形作ってゆく。
こんなふうにして「円く座を組む」ということが、実はまことに大事なことなのではないか。
それは、たとえば、その昔、百姓がおかみに向かって一揆を起こしたときに、一同の名前を連判状に円を描くようにして書き連ねていったような、どこが始まりでどこが終わりかわからない、誰が首謀者なのかちっともわからない、その意味ではみんなが首謀者ともいえる、みんなが一揆の主である、そういう関係性、それがつまり「円く座を組む」ということ。
また、たとえば、次から次へと音曲にのせて歌の主が現れ、踊りの主が立ちあがり、水の流れのように滔々と歌をつなぎ、踊りを受け渡し、場を作りあげていく、そうやって、みなで円く座を組んで繰り広げる宴(=歌遊び)というのは、批評精神なくしては成り立たない。いささか大げさな物言いのようですが、いま歌っている人、踊っている人の、歌の文句、踊りの仕草を受けて、それを踏まえて、ならば今度はこう歌おうか、さあ、こう踊ったらどうだ! なに、そう来るか! という芸と技の丁々発止、そこに「批評精神」は宿り、だからこそ「場」の面白さがあり、遊びの妙味がある。
その昔、鎌倉時代から南北朝の時代にかけて、桜咲く春に、お寺の境内で催された「花の下連歌(はなのもとれんが)」という遊びがあったといいます。それは遊びであると同時に、枝垂れ桜から激しく舞い散る花びらと共にこの世に散り広がってゆく厄病神や怨霊を鎮めるために開かれた場でした。この「花の下連歌」の場も「円い場」でした。身分の上下などここでは消えて、人々は平等にひたすらに言葉の技と芸を競いつつ、歌を詠みついでいく、その白熱する言葉がもたらす熱狂をもって禍々しいものたちを喜ばせ、鎮め、慰めた。裏を返せば、その連歌の場に参加する者ひとりひとりが、自分の前に詠まれた句を理解し、さらにそこから跳躍するための想像力と批評精神と機知を持たなければ、そこに熱狂は生まれず、禍々しいものたちをこの世から祓うことも鎮めることもできない、恐ろしい場でもあったのです。
花の下で熱狂して歌を詠む人間どもの足もとには、禍々しいものたちが蠢く冥界が広がっている、そして、想像力も批評精神も機知も持たずして、ただ付和雷同、与えられた歌なんかを声をそろえて唱和なんかしていると、たやすく人間は厄病神に取り憑かれ、冥界にのみこまれてゆく。
さてさて、どうやら、ナミイおばあからはじまって、話は思いもよらぬところまでたどりついたようです。でも、これもすべて、ナミイおばあが私たちに開いて見せてくれた「歌の場」の教えなのです。私たちひとりひとりこそが歌の主であることを忘れた時、私こそがみずからの心の主、精神の主であることを見失った時、それをナミイ流に言えば、自分の頭の上の神を失ってしまった時、私たちはただただ歌わされ、踊らされる。いまつくづくとそう思うのです。そして、それはちっとも面白くない。まことに不本意で不愉快。なにより危うい。
思えば、ナミイおばあは沖縄“最後”のお座敷芸者でありました。もうナミイおばあのような、お座敷の神々を喜ばせ、神々の歌を弾きだし、踊りを誘い出し、同時に、お座敷にわらわらと寄ってくる禍々しいものどもをも喜ばせ鎮めるお座敷の名手には、出会えないかもしれない。
と、悲しい心で思っていたのもつかの間、ナミイおばあ追悼の宴も無事終わった3月26日のその夜のこと。夜も更けて、なんだか無闇にぐったり疲れていたそのときのことでした。宴に参加していた友人Mから、ラインメッセージが入った。
Mには、自身の身の上に何事かが起きると、「おい、今日なにかあったんじゃないか?」と、必ず連絡をしてくる霊感の鋭い友人K君がいる。そういうときにしか、連絡をしてこない有り難い友人です。そのK君から追悼会から帰ってきたMに不意に連絡が入ったというのです。そして、彼はMにこう言ったという。
「ナミイおばあさん、そこに来ていたよ。君たちみんな、死してなお元気なナミイに精気を吸い取られたから、今日は早く寝ましょうね」
ああ、やっぱりね、そうなんですね、深い祈りを込めて歌えば、生死の境も超えてつながるんですね、そもそもが、私たちは目に見えるものばかりに囚われているだけで、生も死もきっとともに今ここにある。これが、私がこの手紙の冒頭で、「(絶対に死ぬもんかと地団太踏むようなナミイおばあが)ポケットに死を入れて持ち歩いていたブコウスキーとは一見対極のように見えるけど、実はそう大差ないのではないか」と言った本当の理由でもありました。

 

2017年3月29日
姜信子拝

 

追伸 ナミイがお座敷で歌った「チンライ節〜酋長の娘」メドレー、そして「六調」を手紙に添えます。「チンライ節〜酋長の娘」などは歌詞だけとりあげれば、いまどきの「政治的に正しくない」歌の筆頭でありますが、お座敷という磁場では逸脱解放諧謔抵抗の歌に響くから不思議です。
どれもこれも、島の夜、隣近所が集まって、太鼓をたたき、笛を吹き、手拍子を打って、みんなで遊んだ遠い日のお座敷の思い出。

 

チンライ節〜酋長の娘 https://youtu.be/TThTUahBddU
六調 https://youtu.be/sMgdVhjGw2w