何かあった時、原因を外界に求めるか、自分自身の内部に求めるかの2方向の対応がある。自罰傾向か、他罰傾向かと考えてもいい。

 

外界に求めるとき(他罰傾向)は、他者に何かを改善してもらうための行動(非難、要求)をとる。この時発生しやすいのが怒りの感情。
一方、自分自身に求めるとき(自罰傾向)は、反省し、自らの行動を改善するだろう。この時は、自責の感情が起こる。

 

自責は、改善を自分に強いるので負担が大きいが、逆に言うと、自分で事態をコントロールできる部分があるので、自信に通じる(無力感を小さくできる)。一方、怒りによる攻撃は、相手を撃破するときに、一瞬の自信(高揚感)を感じるが、結果は相手次第で決まるので主体性がなく、深い自信は感じにくい。

 

自責は、一見自信がないように思えるが、逆に根柢の自信がある人が感じる感情と言える。

 

原始人は、この2つの視点を自動的にシフトしながら、上手に使っていたと考えられる。
まず、敵が近いときは、外に原因があるという視点。相手がいるので相手に改善してもらうことが先決だ。この状態では、怒りが沸く。怒りは、原因が自分ではなく、相手にあるという前提で情報を集め、その視点での思考を進めてしまう。

そして、敵から距離が取れ時間が経つと、次第に自責が発動し始める。自責は自分が悪いという前提の思考。

 

実際は、相手が悪い部分も、自分が悪い部分もどちらもあるのが普通だ。感情という機能が、緊急性という現実に応じて、自然に「怒り→自責」と認知をシフトしてくれることで、私たちの対応を幅広いものにしてくれている。

 

プーチン、それを信奉するロシア国民にも、早くこのシフトが訪れてほしい。

 

それはともあれ、我々の現実の問題として、この2つのバランスが崩れてしまう場合がある。怒りだけが強い人、自責だけが強い人。どちらも苦しいが、カウンセリングに来る人は、自責が強くて悩む人が多いようだ。

 

自責が強くなる原因は大きく分けて2つ。一つは、性格によるもの。攻撃性より自責のほうに流れやすい「性格」がある。ただ、これはそれほど強力ではないと感じる。


私の経験では、性格より、経験や学習によるものの影響が大きいと感じる。若いころから「子供の心」を鍛えすぎた人は、かなり自責傾向が強くなってしまうようだ。

 

自責も怒りも苦しいが、「どの感情も必要」という原則を思い出すといい。