新年から、コロナ、ウクライナ、強盗、寒波などの情報があふれ、なんとなくそわそわした日々を過ごしている人も少なくないと思う。

人は情報で不安が高まる。

現在の私たちが1日に接する情報量は、平安時代の人の一生分、江戸時代の一年分にあたるという。
関東で多発する強盗事件も、明治時代なら数週間後に新聞で報道される程度。暴行を受けた人のインタビュー映像で、九州の人が戸締りに不安を感じることはなかっただろう。
寒波や大雪のことも、10年前なら天気予報が今ほど正確ではなかったので、当日になって初めて分かったことだろう。今のように1週間前から不安になることは少なかった。

不安は、将来の危険に対処するために、警戒し、行動する(すくむことも含めて)ための感情だが、現代人は、あふれる情報によりおそらく過剰に緊張してしまう。緊張すると、疲労し、うつにもなりやすい。

不安と情報には2つの関係がある。

一つ目は、不安は「自分に関係ある情報」に働きやすい、ということ。株を持っていない人は、株式の動向に不安を感じることは少ない。

もう一つは、不安は「自分に対処能力があるテーマに関わる情報」に強く働きやすく、それを超えることにははあまり働かない、ということ。
そもそも不安の特性を考えると、自分の能力外のことに、不安を感じても余り意味はない。いくら情報を得て警戒を強めても、実際に何も対処できないからだ。明日のプレゼンは大変心配するが、隕石が地球にぶつかることはほとんどの人が気にしていない(実際は、雷に打たれるよりリスクが高いそうだ…)。

ただ、これには例外がある。
例えば、試験の結果、恋愛の結果、物価高、ウクライナ戦争の動向…。個人として何か対処できるわけでもないのに、やはり知りたい。

この欲求は、問題対処のためではなく、もし結果が悪い場合、その後どう生きていくかを準備するための機能だ。不幸にも事態は悪化した。でも、私たちは生きていくのだ。悲惨な状況の後どう生きるか、そのスタートをできるだけ早く切りたいという思いが、この種の知りたいの根源にある。

現代社会のあふれる情報は、フラットに考えると、①自分にあまり関係なく、②対処能力を超える情報である場合が多い。情報の欲求からしたら本来は、程度の低いものだ。

しかし、何しろ量が多いのだ。触れる情報量が多くなると、「なんとなく近く」感じてくる。原始人にとって、何度も触れる情報は、身近で確率の高いものであると認識されるからだ。

一方、能力との比較でみると、自分には対処できないものが多い。しかし、つい「最悪の未来」を避けようと情報収集してしまう。しかも量が多いと、これも真実味を帯びてくる。現代人の不安が、なんとなく終末期の雰囲気を帯びた「漠然とした不安」であることが多いのは、このためである。

いずれも、インターネット時代で情報量がけた違いに大きくなってきたことの弊害だ。

情報との接し方は意識的にコントロールしなければならない時代になっていると自覚しよう。

この際、つい、情報の真偽、つまり質に意識が向きやすいが、まずは量をコントロールすることから、始めるといいだろう。
例えば、近場の災害に関わる情報は取らなければならないが、遠い国の災害情報を必死に追う必要はない。本当に身近なリスクなのか、自分が対処できることなのか、この2点を基準に触れるべき情報を選択してほしい。