前号で、実学の学習は、スポーツのそれと似ていると話した。
ゴルフや野球では、しばしば「腕でなく体で投げる」とか「左の壁」「腰を切る」などの表現でコツが伝えられる。これらの表現は言葉としてはわかるが、なかなか実感を得られない。その言葉を意識しすぎると、逆に変な癖がつくこともある。


特に、現場を踏まない、つまり練習をしない人は、この言葉の真意はいつまでもつかめないだろう。練習、つまり試行錯誤を繰り返すうち、ああ、これが「体で投げる」ということかという感覚をつかめる。ただ、それで終わりではなく、そのうち次第にスランプに陥り、そしてまた、「ああやっぱり体で投げることが大切なんだ」と再び気づく。その繰り返しで成長してくのだ。


カウンセリングも同じ。

例えば受容・共感などというのは、ある人(ロジャース)が、自分が見つけたコツを第三者に伝えるために言葉にしたもの。


実学の学習というのは、学習者の感覚を、伝えようとされる実態イメージに近づけていく作業であるが、現場を持とうとしない人はいつまでも言葉遊びに終始してしまう傾向がある。


そんな人は、例えば自責と罪悪感の違いや、自信と自己効力感、自己肯定感などの区別、つまり、言葉の定義に意識が向いてしまいがちだ。実態は例えば自責なら、「失敗の原因を自分に求めすぎる傾向」があるということ。自信がないとは、「物事がうまくいかない予測が強く、それが自分の能力のせいであると感じる傾向」。これらをある人が、ある側面で定義すれば、いろんな表現がされるだけだ。


お分かりのように、自信低下と自責は重なるところがある。「それは、自責か自信低下か」と区別することに意識を向けても、あまり意味がない。


表現された言葉にとらわれるのではなく、できるだけそれらが表現している実態に近づき、その実態へ対応していくスキルを磨くのが実学の学習だ。


その際、頭を使ういわゆる「勉強」は最低限で十分。後は、自分で実態をつかみ、それに対する自分なりのコツを見つけなければ、いつまでも本物の実力はつかない。練習あるのみ。
次号では、さらに、実学学習のポイントを詳しく考えてみる。