すべてに専門家ではない教員が知らないことがあるのは悪いことではありません。
大事なのは何を知っていて何を知らないかです。
自分が何を知らないか知ることによって
初めて自分が何を教えることができるのか考えることができます。
わたしは国語科の免許をもっているので
国語で示してみましょう。
高校の国語科では「現代文」「古典(古文・漢文)」を教えなければなりません。
でも
ごく少数の古文・漢文専攻者を除けば
たいていの教師は古文・漢文を知りません。
わたしは大学生時代研究者になるつもりで漢文献学を専攻していましたので
漢文献については何を知っていて何を知らないか知っています。
古文については専門外ですが
文献学を学ぶためには「書誌学」の知識が必修ですから
その点では日本の古典についても共通に理解できることがあります。
知らないことを知っているとはどんなことなのでしょうか?
源氏物語を例に取ると
これは日本の古典では最も有名でみんなが名前を知っています。
知っているようでも肝心なことは知られていないのが現実です。
作者は紫式部(と呼ばれている人)であることは一般常識です。
ところが
現在残っているものは彼女が書いたままではないことは
ほとんどの人が(専門家を除けば)知りません。
少なくとも
文体から現五十四帖の作者は同一である可能性は99、…%以上であるという結論が出されています。
伝承でも紫式部が「原・作者(最初に書いた人)」であることは確かです。
じゃあ、何が違うのか?
「原・作者」が書いたそのままで残っている保障がないということです。
最初に紫式部が書いたとしても
その最初に書かれたものは残っていません。
当時は印刷技術がなかったので
当然、誰かが筆写して伝えたものが残ったのです。
その時に最初に書かれたものに読者が創作参加(改編)したとしても
その事実を確かめることは不可能です。
当然、写し間違いは必ず起りますし
おそらく源氏物語が古典であるという意識が生まれる以前には正しい本文という考え方がなかったので
平気で本文の書き換えも起きたはずです。
わたしは文献学上の興味から「聖書文献学」に強い興味をもっています。
その知識からすると
正確な本文を尊重するという考えが生まれるまでは
人は誤解・信ずるところ・面白さのために平気で本文を書き換えます。
実際、我々が平安時代以前の古典と考えているものは
すべて後世の手が入ったものです。
特に鎌倉時代に藤原定家が当時伝わっていた本文を集めて校訂をしなかったら
平安以前の古典はほとんどが失われていたかもしれないとされています。
たいていの国語科教員はその事実さえ知らずに
教科書の本文がどんな系統かも気にせず
古典を語っているのです。
(たいていの古典は何種類かの違った本文があります)
当然、日本の世界的文化遺産、世界最古の心理小説・・・などという評価はみんな受け売りです。
でも
それが悪いなどとはわたしは少しも思っていません。
すべてのことに専門であることなどできないからです。
その時に最低限「誠実」であるために
何を知っていて何を知らないかが大切なことになります。
知らなければ自分が確信をもてるようにするしかありません。
それが自分がそれを生徒に言っていいかどうかを考えるための根拠になります。
突然、話題が変わりますが
今の学校ではその誠実さが失われようとしているように思えます。
たとえば
社会問題になりかけている算数の「掛け順」問題
わたしは小学校の現状からある程度の「掛け順」へのこだわりには反対しません。
でも
自分が何を知っていて何を知らないかということを考えずにものを教えることは
とんでもない結果を招くかもしれないことを知らなければなりません。
教育に優先するのは「正しさ」よりも「誠実さ」なのですから。
当然、誠実さの中に「正しさ」も含まれていることもお忘れなく。